一 (御家の長久、御子孫繁昌といふ口実は、将軍)

御家の長久、御子孫繁昌といふ口実は、将軍や大名に一夫多妻の習慣を持続せしめた唯一の原因であつた。彼等は此口実の下に幾多の側室を擁せしのみならず、本能的衝動に駆られると、処女の貞操を蹂躙し、或は人妻を掠奪するやうな暴横をも敢てした。彼等は性的生活に於ても専制の暴君であつた。その正妻のみは家門の権威と名誉とのために、華冑或は大名等の由緒ある家より迎へても、側室に至ては所謂腹は借物主義で、素姓の知れない何処の馬の骨やら牛の骨やら分らない怪しげな女でも、美貌であり或は游芸に長じて居りさへすれば、否応なしに側室に召し抱へて荒淫放縦の限りをつくした。「不義は御家の御法度」と云つて、若し臣下のものが私通姦通したことが発覚した場合には、直ちにお手打ちの刑に処せられた程、厳格を極めてゐたが、併し此法度は畢竟ずるに主人公の独占権を犯さないやうに設けられたもので、主人公自身は、人妻を姦淫しても、部屋子の貞操を破つても、公然の自由行動として、誰れ一人もそれを咎めなかつた。また御殿女中の頭目たる年寄や上臈等は主人公の眷顧を得んがために、美しい部屋子を抱へて、それを取り持ち、部屋子供も一身の栄達を諜らんために、好色の主人公の眼にとまるやう手のつくやうに持ちかけた。

西鶴の「好色一代男」の中に「松の風、江戸を鳴らさず、東国詰の年、ある大名の御前死去の後、家中は若殿なきことを悲しみ、色よき女の筋目正しきを四十余人、お局の才覚にて、御機嫌を見合せ、御寝間近く恋を仕掛け奉る」とあるのは蓋し実状の一班を穿つたものである。