二 (柳営及び藩邸にては、将軍大名の執務する)

柳営及び藩邸にては、将軍大名の執務する居室を「表」といひ、こゝでは一切女性を置かず、何事も男性の手で取扱ふことになつてゐた。妻の置いてある処を「奥」或は「大奥」と称し、表との区別は厳重に立てられ、その通路には、二箇所あつて、一々錠口を設け、そこから出入りをすることになつてゐた。錠口には杉戸へ錠をかけ、朝暮には必ず役人が立ち会つて開閉する。この二ヶ所の通路の外にお鈴口と云ふのがあつて、殿様の出入りする毎に表と裏とから索を引き鈴を鳴らして通知する。奥へ出入する男子は十五歳以下、六十歳以上のみに限られ、男子禁制と称して可い。たゞ主人公のみが自由に出入する許りで、奥は脂粉の香の漲る女性の世界である。

此の如く表と奥との境界は厳重であって、男女の雑処することは殆ど無い。見た処、風紀の非常に正しいやうであるが、これも要するに主人公の独占権を擁護確保せんがためである。別乾坤たる奥には正妻の御台所の外に、最高級の御年寄、上臈より最低級のお末に至るまで、一般に奥女中、御殿女中と総称せらる、女性が郡山に居る。御年寄(老女)は奥向きの女中全体を取締る重い役、即ち今日の言葉で云へば女官長で、表の国老(老中)と同等の地位にある程の権勢を有つてゐる。しかし、御隠居付、御子様付などゝ云ふ御年寄もあるが、それは唯だ一部分の取締をするだけで、御年寄よりも地位が低く、単に御年寄といはずに、お附きの御年寄と云った。中臈(或は中老)はお側に奉仕する女官で、おの意味では無いが、殿様付きの中臈は側室で上様附御中臈といひ、奥方附のものはお清の御中臈と云った。柳営では中臈は第五番目の女中であるが、子を生んだものは、三十歳内外の年頃になつておの役から退くと、優侍の意味で、御年寄即ち上臈に昇格する。それは単に名義だけの年寄であつて、奥女中の取締をするのでは無い。

大名の多くは幕府の定めにより人質の意味で正妻を江戸に置いたから、領国には第二夫人とも云ふべき権妻を置き、それを御国御前と呼んだ。その下には固より多くの侍がある。江戸へ参勤交替の往来にはを伴うて道中した大名も尠く無い。その中にも、尾張の徳川宗春、姫路の榊原政峰等の如きは世間の耳目を驚かせた程の豪蕩抜りを発揮した。桜田門外の雪と消えた井伊直弼も女なしに旅の出来ない大名の一人であつた。