三 (奥向に奉公する女性はいづれも一生奉公で)

奥向に奉公する女性はいづれも一生奉公であり、且つ殿様附の中臈以外のものは異性に接することが出来なかつた。若し密かに異性と関係したことが発覚すると、不義密通の罪を犯したものとして厳刑に処せられるのであるから、奥女中の全体を取締る年寄の注意は特に性的方面に対して厳重に払はれた。それでも絵島の局事件の如きなどがあり、また大名の家にてはお部屋即ち側室などの姦通事件が起って御家騒動の持ち上った実例も稀でなかつたが、併し柳営にてはお部屋に此様なことの殆ど無かつたのは年寄等の注意の能く行き届いた結果であらう。但し第十二代将軍家慶(愼徳院)の側室雪江(水野大炊頭の娘)が将軍の薨去後、二の丸に出入りした優男の大工と私通し、それが発覚して愼徳院の位牌を取り上げられた面目なさに断食して自殺したやうな事件もあつたが、併し中臈の勤役中に不義密通の噂などのあつた者は柳営に限つて殆ど絶無であつた。将軍の侍の身持には特に厳重の注意が行き届いてゐたのである。

柳営でも藩邸でも初めからとして奉公するものは当時の慣習として別に室を貰ふことになつてゐた。のことを一にお部屋と云ふのは之に由来せる名称である。処が偶ま殿様の眼にとまつて臨時におを拝命したものには、先づ御夜具拝領を仰せつけられる。それが継続して君寵を受けると、おの字を賜つてお手付中臈に昇格するのであるが、それまでは別に定まつた部屋もなく、一般の奥女中と同様に長局の生活をなすことになつてゐた。

体力と財力との許す限り、幾多の侍を擁して歓楽を恣にした殿様の閨門には妻に停年制があつて、三十歳内外の年頃になると、寝所を共にしない習慣となつてゐた。奥方は三十歳を越すと、たとひ健康であつても、御褥(おしとね)御断りといつて、独身同様の身の上となり、その附女中より美しい一人の女を見立てゝ、それを主人公に推薦するのが例であつて、若し三十歳を過ぎても、御しとね断りをしないと、他からいろいろな蔭口をいはれたものである。侍に於ても同様の停年制があつで、君寵の衰へないうちに転役する慣例となつてゐた。此の如く将軍大名の閨門には寵にも新陳代謝があって、年の若い女性のみが君寵を壟断し、三十歳以上の姥桜になると、仮令残んの色香の衰へなくとも、孤独のさびしさを味はねばならなかつたのである。金殿玉楼の栄華な生活にも此の如き悲惨な一面のあつたことは、今日の人達の想像し難いことであらう。

柳営では、上様附の中臈は、将軍の薨去すると、位牌を賜り、また剃髪を許されて、桜田の御用屋敷に余生を送り、勤役中と同様に扶持米を受ける例になってゐた。しかし、此様な身の上となつても、猶は監督は厳重であつた。保養とても寺社の参詣位が精一杯の楽みで、芝居見物などは固より許されなかつた。御用屋敷の出入にさへ時間の制限があつて、若し夕刻の七時の門限に遅れて帰邸するやうなことがあれば直ちに手続書を取られ、此様なことが度重ると、その素行を探偵せられた程、将軍の薨去後にも本丸に居る年寄の監督の下に余生を送らねばならなかつた。

此の如く側室を始め、すべての奥女中の素行に対する監督と注意とは厳重を極めてゐたが、主人公たる将軍大名の性的生活は前述の如き有様で、素姓の卑しい女性でもそれが自分の気に入れば直ちに侍となし、また人妻でも主君の権威で之を掠奪するなど、何の憚る処なく決行した。徳川中興の明君と称せられた第八代将軍吉宗でさへ、関東代官伊奈半左衛門の手代某(禄高二三十俵の軽輩)の女房を強奪して侍とした。中井竹山は徳川将軍家の開祖家康を評して「閨門の治まらざる聖人」といつたが、その子孫は、いづれも家康の好色の遺伝を受けてゐると見えて漁色の点に於ては決して祖先に譲らなかつた。