四 (家康の好んで相手にした女性は寡婦であつ)

家康の好んで相手にした女性は寡婦であつて、彼が後家好きは有名な話柄として記録にも上つてゐるが、その子孫に至ては、処女をも犯し、人妻をも強奪した。第二代将軍秀忠の如き比較的謹直の人でさへ、素浪人の娘に手をつけて懐胎させた程で、その後の歴代将軍の不身持ときては実に言語道断なものがある。

第三代家光は英明の君主のやうに世に伝へられてゐるが、実は漁色に憂き身をやつした暗君の一人であつて、それが意外にも賢君と思はれてゐるのは、輔弼の役に当つた松平信綱や酒井忠勝などの宣伝の結果だと言はれてゐる。家光の阿万の方は、元は慶光院といへる寺院の比丘尼であつたが、その美貌に恋着した家光は、将軍の威光を以て還俗を申しつけ、また第四代将軍家綱の生母お楽の方といふのは、鎌倉の古着屋の娘で、田舎育ちの卑しい素姓のもの、第五代将軍綱吉の生母で有名なお玉の方(桂昌院)は京都堀川の八百屋の娘で、しかも容貌の醜い女であつた。然るに将軍の生母であるがために、古着屋の娘のお楽は正二位の位を贈られ、八百屋の娘のお玉は生前に従一位に叙せられた。何処の馬の骨やら牛の骨やら判らない素性の卑しい下賤の女でも、将軍のになつて、その生んだ子が将軍職につけば、一躍して何々院と称せられ、高い位にも叙せられて、大奥は無論のこと、世間にも権勢を揮ひ得られたのである。いかに腹は借物主義の時代であつても、心あるものは唖然たるの外は無かつたであらう。此の如く、家光は卑賤な女をにして、しかもその腹より第四代及び第五代の将軍を生ませた。その閨門の治まらないこと実に言語道断といふの外はない。

第五代将軍の綱吉も、父家光に劣らざる漁色荒淫の将軍で、多くの侍や男寵のあつた中にも、特に寵愛したのは、お伝の方といつて、英一蝶の浅妻船の絵に書かれた程であるが、その父といふのは素姓の卑しい軽輩で、小谷権兵衛といひ、仲間頭(八十俵高)或は黒鍬(十二俵一人扶持)だとも云はれてゐる。このお伝の方は十九歳の時、鶴姫を生み、二十一歳の時、徳松を生んだ。若し徳松が夭死せなかつたら、第六代将軍となり、随つて仲間頭或は黒鍬といふ掃除人を父とせる彼女も将軍の生母として何々院と崇められ、且つ高位に叙せられるに違ひない。また綱吉は、牧野備後守の妻で既に三人の子の母たる阿具里を強奪し、剰つさへその娘の安子をも強姦して母子共に犯した。その乱倫の甚しき、実に驚くの外はない。

第六代将軍の家宣は家光の孫であるが、これも祖父に譲らざる漁色漢であつた。「三王外記」には、その内寵の美人百を以て数ふとある。その中にも一身に寵を集めた右近局(家宣の薨去後、薙髪して月光院といふ)は、これまた至つて素姓の下賤な女で、世に伝へらるゝ処に依れば、勝田玄哲と云ふ按摩の娘であるといひ、或は浅草唯念寺の破戒坊主の娘であるとも言はれてゐる。その娘に七代将軍家継が生まれたのであるが、五歳で夭死した。父家宣の乱淫であつたため、生来体質の虚弱なりし結果かも知れない。

紀州家の庶子より出でゝ宗家を継いだ第八代将軍吉宗は、徳川中興の名君と称せられ、ことにその享保の勤倹政治は今に至るもなほ史家に賞讃されて天晴れの賢主と唱へられてゐるが、併しその性的生活に至ては頗る乱脈であって、政治の方面には極端に近い程の倹約を断行しても、女色には少しも左様な形跡は無く「清濁太平論」に記する処に依れば、大奥の女中の総数は五千人にも達し、その中にはいろいろな女もあつて、二の間、三の間の女中の内には相手にした女も多く、懐胎した者十人許りもあつたと云ふ。吉宗は元来性的早熟の方で、既に十一二歳の時、生母浄円院の腰元に通じたことがあり、十六歳の頃には山伏の娘を妊ませたこともあつた。演劇でする天一坊事件は必ずしも空想の脚色ではない。将軍職を襲いでからも漁色の習癖は依然として改まらず、切米二三十俵にも過ぎざる極めて小禄の貧亡侍の女房に懸想し、その夫の上官なる関東代官伊奈半左衛門に命じて無理に離縁状を夫に書かせ、強奪したことが「耳袋」の中に記るされてある。吉宗の壮年時代の荒淫の祟りであらう、廃人に近い暗弱不其の家重が長子として生まれた。その生母の須磨の方は言ふ迄もなく卑賤な女であつた。