糜爛しきつた将軍大名の性生活の中にも、特に眼立つて甚しかつたのは、第十一代将軍家斉と、幕末時代の水戸の藩主徳川斉昭の漁色である。
家斉は十五六歳の青年時代より六十九歳の晩年に至る迄漁色に耽り、二十一人の妾があつて、その腹に五十五人の子女を生ませた。その中発育したのは二十五人に過ぎなかつたが、それでも此の多くの子女を片づけるがためには、諸大名に強制的に養子として当てがひ或は嫁に迎へさせた。寛政より文政の間に聟入や嫁入の行はれた数は十九度、天保三年より十一年までに五度、合計二十四度に達した。家斉の大奥に於ける性生活を足利時代のことにして描写したのが柳亭種彦の「田舎源氏」である。家斉の妾には素姓の卑しい女も多かつたが、その中にも寵妾であって、三人の女を生んだおみよの方と云ふのは、法華宗の破戒坊主日啓といふ者の私生児であつた。その腹に生れた溶姫は百万石の加賀家に嫁し、末姫は四十三万石の安芸家に嫁した。堕落坊主の娘が生んだ女でも将軍家の息女であるので大名の御台所となつた。
徳川斉昭には三十七人の子女があつた。その生母は十人で、その中、妾は九人であるが、併しこれは唯だ子を生んだ妾だけで、それ以外のものは系譜に記載されてないから、固より何人あつたか分らない。しかし、その中には紺屋の娘で水戸家に仕へてゐたものに手をかけて妊娠させたこともあつた。斉昭が五十余歳の老年になつても好色が甚しいので、賢臣藤田東湖の直諌を受けたことがある。「実歴史伝」に東湖の語を記して「公、早生女色に過ぐるものあり、余窃かに之を憂ふ。一日直諌して曰く、公の齢既に高し、若し色に過ぐるあらば、恐くは賢体を害せん。臣願くば少しく之を節し玉はらんことを。公曰く、汝の忠告甚だ可なり、寡人必ず諌に従はん」とある。これは嘉永六年、斉昭五十六歳の時であったが、併し賢臣東湖の直諌も効なく、その後になつても六人の子女が妾腹に生まれた。水戸家では毎年二度づゝ偕楽園を公開して藩中の者に拝観させることになつてゐたが、その際には末婚の女はいづれも丸髷に結んで女房風をした。それは藩公の毒手を免れんがための予防手段であつた。
さりながら家門の繁昌を口実にして一夫多妻の放縦生活を送つた将軍大名も、迷信或は其他の事情から堕胎を行ひ産児を制限したこともある。第三代将軍家光の妾お万の方は元は比久尼であつたので、懐胎させなかつた。「将軍外戚伝」に「慶光院、お万の方と改め、有髪の形となつて枕席に侍す。然れども老中より内証ありて懐胎を禁ずる故、御君達は無し」とある。第五代将軍綱吉の妾阿具里は牧野備後守の妻であったのを強奪したのであるから、これまた秘密を守るがために子を産ませないやうにした。
徳川光圀も「桃源遺事」に「西山公、末だ御簾中の御沙汰も無かりし頃、御側近き女中に懐胎の人ありける(中略)若し懐胎のものあらば早速水になし申すべしと、かねかね堅く仰せられ候」とある通り堕胎を実行させた。