江戸時代に於て禁欲生活を余義なくされた者は、男では真宗以外の僧侶、女では御殿女中であつた。しかし、自然の要求を抑圧することが出来ないで醜行を恣にした者も尠くは無かつた。僧侶が男色を買ふのは黙認せられたが、女犯の発覚した場合には、日本橋(大阪では高麗橋、京都では三条橋)で縄つきの侭哂された上に寺院より放逐せられ、情状の重いものは、流罪、死罪の刑に処せられた。御殿女中は将軍大名の側妾、所謂お部屋になつた者以外は異性に接触することが許されず、不義は御家の御法度とあつて、異性と関係したことが露顕した時は厳刑に処せられた。しかし法度を犯し危険を冒してまでも内密に俳優や男娼(蔭間)に狎戯した女中連も多かつた。
斉しく御殿女中と云つても、種々の階級があつて、上臈年寄、御年寄、御客会釈、御中臈、御錠口、表使、御祐筆頭、御祐筆、呉服之間、御広敷、御三之間、火之番、御茶之間、使番、御半下といふ席次にわかれてゐた。此等の御殿女中は、柳営と藩邸とを問はず、一に奥女中とも称せられ、それになるものは「諸家奥女中袖鏡」に依るに、親の家が貧乏で是非なく奉公し、ゆくゆく立身して親を養ふもの、或は親のためと云ふのでは無いが、同胞が沢山で、それぞれの片附も行届かないがため、年頃になる迄奉公に出るやうな者もある。此様なものは貧乏な旗本や御家人の娘であつて、武士の家に生れたお蔭で、高級の奥女中に昇進する望みもある。また不足の無い身の上でも、両親の手許ばかりに育て置けば世の中の憂い辛いことが分からず、嫁入りしてからも納りが悪るいと云ふので御殿奉公するものもある。この種類の奉公は町家の娘に多く、武家を仮親にして御殿に奉公することは、元禄以来より起つた新傾向であつたが、天明以後は、更に娘を上品な人柄に仕上げたいと云ふ希望から、貴族の生活を見学させるために、こと更御殿に奉公させるやうになつた。そこで御殿奉公は、今日の高等女学校卒業の肩書と同様に嫁入条件の一となり、親は不相応な金をかけて娘を御殿に奉公させて世間に誇るが如き風習を生じてきた。そして、その娘の中には、裁縫の巧みながために呉服の間に勤めるのもあれば、手蹟が自慢で御祐筆になるものもあつた。その他、奥女中になる者には、縹緻のよくないので縁が遠いもの或は出戻りの者もあつて、此様なものは一生独身の覚悟で奉公するのである。
奥女中の中で最初からお妾として奉公するものは奥女中の第五階級たる御中臈を拝命し、若し子供を産めば、お腹様と称せられて随分威張られ、御上臈年寄に昇格することも出来、また普通の女中として奉公した者でも殿様のお眼にとまつて妾になつた場合には、先づ御夜具拝領を仰せつけられ、それが引きつゞいて寵愛されると、上様付の御中臈に昇進することも出来る。併し此の如き側妾以外の奥女中は、最高級の上臈年寄でも、最下級の御半下でも異性に接触することは絶対に許されなかつた。しかし、奥女中とても矢張り本能を備へた女性である。況んや、一夫多妻の淫靡なる大奥の空気中に閉ぢこまれた彼女達には、燃えるほど爛れる程の性的煩悶がある。禁欲生活を余義なくされるほど、異性に対する憧憬も甚しくならざるを得ない。柳営にては、毎月一回老中が大奥を検分するがために見廻ることがある。幕末有名の政事家阿部伊勢守の老中を勤めてゐた時、年若で且つ好男子であつたので、伊勢守が大奥を検分に見まわりに来る場合には、その刻限になると、奥女中は、いづれも長局より出でゝ明き間に潜み、障子、襖の透間から、伊勢守の容姿を覗き見て、彼れ是れと互ひに評し合ひ、中には阿部伊勢守の定紋の鷹の羽を部屋善或は簪へつけて独り楽んでゐた者も多かつたと云ふ。此様な一事実に徴しても、如何に彼女達が異性に渇してゐたかを推知することが出来よう。