二(されば奥女中の中には意馬心猿の狂ひを抑)

されば奥女中の中には意馬心猿の狂ひを抑制することが出来ずに、御法度なる不義の罪を犯した者も尠く無かつた。毎年三月の宿下りや、御代参の時に、世間の眼を偸んで、不義の快楽を貪ぼることもあれば、異性を女装させて大胆にも部屋に忍びこませたこともある。その中にも世間の耳目を聳動させた御殿女中の醜行事件は第七代将軍家継の治世なる正徳年代に起つた江島事件であつた。

江島は御家人白井平右衝門の娘みよと云へるもので、最初は御使番として大奥に奉公した。お使番といふ役は、前掲の如く、奥女中の中でも最下級の御半下より僅か一級上の極く卑賤な女中であるが、生来怜悧なる彼女は僅か数年の間に次第に昇進してお目見得以上の高級女中格に進み、遂には第六代将軍家宣の寵の左京局附きとなつたが、将軍薨去後、第七代将軍家継を生んだ左京局が薙髪して月光院と称し、大奥に於ける権力を掌握すると共に、江島も月光院附の年寄となつて飛ぶ鳥を落とすばかりの勢を得るに至つた。彼女の虚栄心は之によつて充分に満たされたが、唯だ一つ満足されないものに性の要求があつた。

当時浅草の諏訪町に住める御用商人の柄屋善六は、将軍の代がはりを好機会として、江戸城内入用の薪炭を一手に引受け、莫大の利益を穫得するには、大奥に取入ることの第一に肝要なるを感じ、先づ奥医師の奥山交竹院に贈賄して奥女中に仲介を頼んだ。医術は下手でも、女性の弱点を看破するに妙を得た交竹院の炯眼は、月光院附の女中で大奥に勢威を有する江島の性的に煩悶せることを診断し、之を利用して巧みに取入るべく山村座の芝居見物を勧めた。出村座は木挽町にある大劇場で、当時は生島新五郎、市川団十郎などの名優が出演してゐた。「江島さま。日頃のお勤め、さぞかし御大儀のことゝ存ずる。たまにはお気晴らしに芝居でも御見物なされては如何で御座る。愚老など、懇意先の町人から山村座の芝居見物に誘はれましたから、あなた様に御差支なくば、お供いたしても苦しうは御座らぬ」と言葉巧みに持ちかけた。既に三十二歳の年増盛りで、異牲の肉に渇してゐる江島は、月光院の覚えのめでたいのと、誰一人憚るべき儕輩もないので、交竹院の勧誘を直ちに快諾した。

この由を交竹院より聞いた柄屋善六は、我事成れりと手を打つて大に喜び勇んだ。早速山村座に交渉して八間の桟敷を借り切り、美しく飾り立てゝ江島を招待したのは、正徳三年の四月二十五日であつた。そこで、江島は私用にかこつけて大奥を出で、腹心の女中数名を従へて、山村座に微行し設けの桟敷に入つた。上四間には釣翠簾を垂れて後方には幔幕をうち廻し、下の四間には金屏風を引きまわしてあつた。取持役には座元の山村長太夫、役者上りの作者中村清五郎等が袴羽織で出揃ひ、酒宴の相手をした。その席に医者坊主の交竹院も列座してゐたことは固より言ふまでもない。処が江島は何か不快らしい顔付で折り折り欠伸をするので、中村清五郎はそれを見て取り、早速楽屋に馳せ往いて子供役者を残らず引きつれ来り、酒の相手をさせて座敷を取り持たさせたが、江島の不快の顔つきは依然として変らないので、またも楽屋へ行き、重立つた俳優を連れて来ようとした処が、生島新五郎と市川団十郎(第二代目)とは唯今舞台へ出掛けわばならぬからと云つて辞退したので、再び桟敷に戻つて、その由を言ふと、江島は甚だ不興の体で、そのまゝ帰つて了つた。