三(計画成就と大に喜んでゐた柄屋善六は、肝)

計画成就と大に喜んでゐた柄屋善六は、肝腎の江島が不快不興の体で碌に芝居を見ずに帰つた由を聞いて焦せらずに居られなかつた。そこで今度は、手ちがひの無いやう充分に座元と打ち合はせた上で、更に江島を山村座に招待した。前回と同様に美しく飾り立てられた桟敷に江島が着くと、取持役の清五郎は早速立役者の生島新五郎の楽屋に往いて、「今日は是非共江島さまの酒の御相手になつて貰ひたい。あの御方の御意に協つたなら、自分等許りでなく、お前さんの為にもなるんだから」といつて桟敷に来るように勧めた。新五郎も、相手がなみなみの御客でなく、大奥に勢威のある江島であるので、二つ返事で承諾し、清五郎と共に桟敷へやつてきて江島の酒の相手をした。江島は前回とは丸で打て変つて満面にはち切れんばかりの喜色をたゞへながら、附添の女中と新五郎を相手に盃を取りかはしなどして、如何にも楽しげに笑ひ興じた。やがて狂言の半になつた頃、新五郎は交竹院に向つて「この桟敷から直ぐに太夫元の二階へ参られる忍び道が御座ります。これは折り折り貴い方々のお忍びで芝居見物に渡らせらるゝ時、御休息のために拵へ置いたもので御座いますが、若し御退屈でゐらせらるゝなら、暫くの間太夫元の二階へ御越しになつて御休息遊ばしては、いかゞで御座いましよう」と云つたのを側で聞いてゐた江島は。では休息することにしようと急ぎ女中を伴つて座を起つた。新五郎は案内して桟敷の行き当りにある忍びの戸口を開け、忍び道を通つて二階の座敷に上つた。やがて上から杯盤が運ばれて、此処にも復た酒宴が開かれたが、座元の長太夫は頃加減を見計つて次の間に江島を訪ひ、新五郎と密会を遂げさせた。

この事あつてより以来、江島は大奥の年寄詰所に閉ぢこもつてゐても新五郎の優さ姿を何時も心に描いて復たの逢瀬の首尾を待ち焦れてゐた。しかし、千代田城の人目の関は、思ひのまゝに外出するを許さない。春に一たび会ふたまゝで、夏も秋も空しく過ぎ去つた。処が翌年の春正月になつて、公然外出することの出来る好機会が到来した。それはその月の十二日に、月光院の代拝として芝増上寺にある文昭院家宣の霊廟に参詣することである。彼女は此機会を利用して芝居見物と云ふ別天地に恋ひ焦るゝ男と再び密会すべく、日頃大奥に出入りせる呉服屋の手代に言ひつけて前日から山村座の二階桟敷五十間を買ひ切らせ、翌日多くの女中を従へて先づ増上寺へ参詣したが、その時、寺院への御包金七十両、銀二貫目、其他呉服物など沢山あつたのを、寺僧には僅にその幾分を与へたばかりで残余は悉く芝居へ持ちこんだ。さて二階桟敷に陣取ると直ちに酒宴を開き、恋ひ男の新五郎を始め、半四郎、清五郎等を左右に侍らせて乱痴気騒ぎを始め、果ては気が詰ると云つて釣簾を捲き上げさせ、さしつ押へつ酒盃のやり取りをしたので、見物は舞台の狂言を見ずに唯だ二階座敷の方のみを凝視して罵りどよめいた。

恰座其時下桟敷に松平薩摩守の家来谷口新平といふものが夫婦連れで見物をしてゐたが、二階桟敷で江島が酔つぱらつて雫した酒が新平の頭上に流れ落ちたので、新平は大に怒り、直ちに二階桟敷へ談判を持ちこんだ。江島に附き添ふてきた御徒目付の岡本五郎右衛門が平らあやまりにあやまつたので、新平もやつと怒りを解いたが、芝居も見ずに立ち帰つた。対手は兎に角武士である。事若し大仰になつては身の落度と岡本は頻りに江島に早く引き上げるやうに勧告したが、歓楽に浸つてゐる彼女は少しも耳にかけず、却つて二階桟敷から廊下伝ひに座元の長太夫の居宅へ行きて復たもや酒宴を催うし、さんざん酔つぱらつた上、更に長太夫の座敷を立つて裏通りの山屋といふ茶屋へ行き、役者を大勢呼びよせて此処でも大騒ぎを始めた。附添の御徒目付等は気が気でなく、最早や日暮れに及びました故、是非御立ちなされと、口の酸くなるまでに忠告しても、まだ素直に帰る気配もなく、役者を始め茶屋の者等に花をやり、増上寺より持参の金子を残らず費消して、夜の五ッ時やつと御輿を上げて大奥に帰つた。

この大騒ぎは早くも表役人の耳に入つた。評定の末、江島の罪軽からずとあつて、彼女は流罪の刑に処せられることに定つたが、月光院の取り計ひで信州高遠の内藤駿河守に預けの身となり、六十一歳まで、恋の残骸を此地にながらへた。相手の生島新五郎は八丈島へ流刑を申しつけられ、山村長太夫、中村清五郎も同じく流罪、医者坊主の交竹院、御用商人の善六も伊豆の大島に流され、劇場山村座は永久に興行停止となつて、当時第一の大劇場は果敢なく亡びて了つた。