一(江戸時代にては、親鸞上人の開いた浄土真)

江戸時代にては、親鸞上人の開いた浄土真宗を除き、他の宗派の僧侶に対しては厳重にその戒律に干渉し肉食妻帯を厳禁した。江戸時代までは公然の秘密として看過されてゐた僧侶の女犯も国法を犯す罪悪となつて之を犯した僧侶は幕府規定の法介によつて罰せられることになつた。「御定百箇条」の女犯之僧御仕置の条に、寺持の僧は遠島の刑(流罪)に処し、所化僧は、晒しものにした上、寺法によつて処置し、姦通した僧は死罪の上に獄門の刑に処すとある。寛文五年の諸宗寺院法度に添ふた下知状にも「他人は勿論、親類の好みこれありと雖、寺院坊舎に女人を抱へ置くべからず、但し在来の妻帯者は格別たるべき事」といふ箇条があつて、妻帯の宗旨以外の寺院には女人を置くことを厳禁した。

此の如く女犯は国法として禁止されても、僧侶の中には私かに妻を寺内に蓄へる者も多かつた。世俗はそれを大黒と云つた。大黒天は庖厨を主る神であるので、喜処を守ると云ふ意味から斯く名づけたのである。しかし、梵妻を置くことは固より内証である故、その女は事実大黒の名の如くに喜処にのみ隠れて、決して表面に現はるゝことは無かつた。されば大黒を置く位なことは当時に於ても公然の秘密として看過されてゐたが、若し世俗の婦人と通じ或は売笑婦に戯むれたやうなことの発覚した場合には毫も仮借することなく、之を検挙して日本橋(大阪にては高麗橋)の上に三日間晒し物にし、その情状の重いものは流刑、死刑に処したのである。

されば僧侶が花柳の巷に行く場合などには、世人の眼を胡魔化さんがために、医者し変装し、一本の脇差を指した。江戸時代の医者の多くは坊主頭で且つ帯刀を許されてゐたのである。芝増上寺の僧侶などが、医者に化けて品川の遊廓に登楼したことは、「高輪へ来るとうしろで帯をしめ」「薬箱持たずに品川さして行き」といふ川柳に徴しても明かである。法華宗の感応寺(今の天王寺)のある谷中には、いろは茶屋と云ふ私娼窟があつて、元禄より正徳に至る間は片程殷盛でもなかつたが、享保以降、感応寺に富突の創催され、宝暦以後は富突の回数の増加して谷中の次第に繁盛に赴いてより、いろは茶屋も之に件うて繁昌し、五十余箇所の岡場所の中位となつた。此のいろは茶屋は感応寺の僧侶を顧客の一としたもので、川柳に「いろは茶屋医者で行く程間は無し」とある如く、寺院と私娼窟とが近いので、別に医者に変装しなくとも人眼に立たずに遊びに行けたのである。