女犯の罪が発覚して所刑されたものは頗る多かつた。宝暦六年十二月には、江戸深川霊岸寺恵浄寮の僧侶春雅は町人と共に屡々吉原の遊廓し赴き、遊女尾の川に馴染んだことが暴露して、日本橋で三日間晒しの上、追放せられた。寛政八年には八月十六日より三日間に亘つて女犯の僧七十余人が日本橋で晒しものにせられた。尤もその前から一両人づゝ検挙せられて晒されたこともあるが、併し一度に七十余人が珠数つなぎに晒されたことは、これが最初であつた。それは町奉行が吉原を始め岡場所に手配りを置き、僧侶の遊興して帰る途中を待ち受けて一時に召し捕へたのである。その中には諸宗の僧侶があつて、最年長者は真言宗常閑寺の西送(六十二歳)最年少者は浄土宗駒込蓮光寺の所化知玄(十七歳)といふものであった。
享和三年六月には谷中日暮里にある日蓮宗の廷命院の住職日道(四十一歳)が死刑し処せられた。その沙汰書に依ると、日道は下谷善光寺阪源三郎の娘きん、西の丸大奥部屋方下女ころと通じ、その外、屋形向を勤めた婦人両三名に艶書を送り、その女が寺に参詣した際密会を遂げ或は通夜などゝ申し立てゝ寺内に止宿させ、殊に、ころといふ女の妊娠した由を知つて堕胎薬を与へる等、破戒無残の所行の多いので、死刑を申渡されたのである。また同院の納所坊主柳全(六十六歳)は吉原五十間道の清五郎母りせと云ふ者と私通した廉で、晒しの刑に処せられた。そして此等の女犯僧に関係した数名の女子は、いづれも押込の処分に遭つた。
文政七年にも八月二十七日より二十九日まで、日本橋に於て日蓮宗妙法寺の所化六人をならべて三日間晒しものにした。それは飯盛女や吉原の遊女を買ひ、また魚肉を食つたが為であつた。文政十三年四月には京都に於ても女犯僧が一時に検挙された。その中、十八人は遠島の刑に処せられ、之に関係した女は、いづれも押込の処分に遭ひ、七人は三条橋詰で晒しものにされた。遠島の刑になつた者の最年長者は、禅宗の宝蔵寺の光定(五十九歳)年少者は日蓮宗の妙顕寺の別頭(二十五歳)であつた。此等女犯僧の相手にした女には、素人女もあり、芸者もあり、比久尼もあつた。大阪にても文政十三年二月より女犯僧の検挙があつたが、その発端は、道頓堀千日前に自安寺といふ日蓮宗の寺があつて、妙見を祭り大し繁昌してゐたが、お針と云つて、女を寺内に昼夜留め置いたことが発覚して住職の捕縛されてから、他の寺院にも検挙の手が及んで多数の僧侶が召し捕られることになつた。
天保十一年には汀戸鼠山の新感応寺の住職日啓が、田尻村文蔵の後家りもを表面上尼僧として梵妻となし、水戸に隠匿したといふ廉で遠島を言ひ渡され、牢死したことがあつた。併しこれは幕府が表面を糊塗した処分であつて、実は日啓始め、新感応寺の僧侶が大奥の女中と通じたことが発覚したのであるが、大奥に関する醜事件であるので、それを荒立てずに前述の如き単純なる女犯事件として片附けて了つたのである。新感応寺の僧侶共に通じた奥女中は、家慶将軍附老女の瀬山、大御所家斉の夫人附御年寄の花町等で、御代参の外に自分等の参詣に託して寺院に出入し、或は衣服の加持寄進を口実として寺院に運ぶ長持の内に潜み、寺し忍び通つたことが発覚し、天保十一年六月、瀬山等は永の御暇が出て放逐されたのであつた。