以上記述した如く、江戸幕府は女犯に対しては毫も仮借せず、軽きは晒しより、重きは流刑乃至死刑に処したが、唯だ親鸞を開祖とする真宗に限り、宗祖の許す処であるといふ理由の下に公然妻帯の許されたがため、真宗僧侶の妻帯が大に眼立つやうになつた。徳川時代までは、諸宗共に妻帯の黙過されてゐたのに、徳川時代になつてから、真宗以外の僧侶の女犯に厳刑を科することになつたので、他宗の僧侶が真宗僧侶の妻帯生活を羨むと共に嫉妬心を抱くやうになつたのも、これ亦た人情として無理からぬ次第である。その為であらう、真宗の開祖親鸞に対する非難攻撃の著書が江戸時代に至て陸続出版された。その著者は浄土宗の増上寺を中心とする僧侶に多く、親鸞は一念義の邪説を叫へた異端者たるのみならず、自ら肉食妻帯して仏戒を破つた堕落僧であると非難攻撃した。それに対して東西本願寺を中心とする真宗の僧侶は反駁弁疏の著述を出だし、親鸞の妻帯問題は江戸時代に於ける教界の一問題となつた。もつとも親鸞攻撃は単に妻帯のみに限らず、肉食のこともあり、また教義に関することもあつたが、併し主要なる攻撃の対象となつたのは妻帯問題であつて、之し関する著書の如めて世に出でたのは寛文年代のことで、「親鸞邪義決」を嚆矢とし、降て文化年代に重り、浄土宗の僧法州は「不可会弁」及び「強会弁」を著はして、極端に近い程毒筆を弄し、親鸞を罵倒した。之に対してその妻帯を弁疏釈明した本願寺側の著述には、円澄の「真宗帯妻食肉義」、知空の「真宗肉食妻帯弁」、仰誓の「持妻食肉弁惑編」等がある。
親鸞の妻帯を弁疏した著述の中にも「親鸞の妻は九条関白兼実の女玉日姫で、救世観音菩薩の化身である。六角堂の救世著薩が玉日姫となつて上人の配となり、一生の間能く荘厳に幕らし、臨終の折には引導して極樂に往生せしめる誓願から、上人の妻となつたのである」といふ「御伝抄」の記事の如きは、親鸞の妻帯を神秘的し矯飾した妄談であつて固より一笑に附すべきものであるが、併し斯くまで弁疏しなければならなかつた程、当時の真宗側では親鸞の妻帯問題か苦にしてゐたのである。さりながら元来真宗の開祖親鸞は、非僧非俗の愚禿と言明し、在家生活をした人であるから、公然肉食妻帯をしても何等差支へは無かつた。さればその流を汲む真宗の僧侶が宗祖と同様に妻帯するのも当然の筈であるのに、開祖の妻帯を弁疏釈明するに、妄誕無稽の神秘的挿話までも持ち出さねばならなかつたのは、本願寺及びその末寺の僧侶が非僧非俗を標榜した愚禿親鸞の生活や精神を無視閑却して、他宗同様に寺院生活をなし、一般の僧侶と同一に法衣を纏ひながら、肉食妻帯だけは開祖の為す処に倣つたが為である。
江戸時代には真宗の妻帯を非難攻撃した浄土宗及びその他の宗派の僧侶も、明治七年、太政官より「自今肉食妻帯勝手たるべきこと」の布令を得てから、いづれも公然妻帯するやうになり、随つて親鸞攻撃を敢てする者も無くなつて了つた。是に由て之を見ても江戸時代に於ける親鸞妻帯の攻撃は羨望嫉妬心から起つたことが推察される。