江戸時代に於ける夫婦関係は、忠臣の二君に事へないと同様にゝ貞女は二夫に見えてならないものとせられ、「女子には別に、主君なし、夫を主人と思ひ、敬ひ慎みて事ふべし」(「女大学」)とあるが如く、夫婦関係を主従の関係に対比させた。元来主従の関係は義を主としゝ夫婦関係は情を主とするものであるのに、何事にも専制主義を重んじた江戸時代にてはゝ此様な不合理の対比も何等の批判さへ無くゝいかにも尤もなことゝ思はれてゐたのである。そして夫が如何に乱行を恣にし妻を虐待しても、妻には離婚を請求する権利もなく、一生夫の下に忍従せねばならなかつた。夫の方では自己の意志のまゝに、所爾三下り半の離縁状で容易に妻を離別することが出来ても、妻には絶対に離婚の請求が許されなかつた。
貝原益軒の著述と伝へられてゐる「女大学」に、七去とあつて、親に順はざる女、子の無き女、淫乱なる女、嫉妬深き女、悪疾ある女、多言の女、盜心のある女を夫るべきことを説き、之を以て聖人の教なりとして無上の権威を帯ばせてある。それは「小学」に「婦有二七夫一、不レ順二父母一去、無レ子去、淫去、妬去、有二悪疾一去、多言去、竊盜去」と説いてあるからである。しかし此の「小学」といふ儒書に記せる七去の思想は「礼記」の文字に拠つたもので、それには、内則と昏義との二篇があつて、主に男女に関する諸般の道徳を規定してあるが、「小学」の七去はこれと同種のものである。礼記は聖人孔子が堯舜の道としての儀礼を述べたものと伝へられてゐるが、併し此書の偽書なることは夙に識者の看破せる処で、実は漢時代以前の古代支那に行はれた諸種の道徳及び社会的慣習を集載したものであつて、決して孔聖の教ではないが、併し世には斯く信ぜられてゐるのである。
我国で奈良朝時代以前に制定された「大宝令」の中にある離婚法の如きも、矢張り前記の支那思想に拠つたもので、無子、淫乱、不事舅姑、口舌、盜竊、妬、悪疾を七去としてある。また之に対して「三不夫」として離婚の出来ない三つの場合が規定されてある。それは結婚した当時、夫が貧乏でその後に金持になつた時には妻を去ることが出来ない。また妻が舅姑の喪を維持した場合、及び妻の帰るべき実家のない場合にも離婚することが出来ないことになつてゐる。此様な規定も「小学」にあつて「有二三不去一、無レ所レ帰不去、与更二三年一不去、前貧賎後富貴不去」とある。然るに「女大学」には、唯だ七去のみを挙げて三不夫を記して居らない。これは女子の教訓のために書いた本だから、故意に省略したのかも知れないが、兎に角公平を欠いた偏頗な書き方である。
然るに江戸には前記の七夫の原因がなくとも、また、三不去の理由がなくとも、家風に合はぬとか、舅姑の気に入らないとか云ふやうな口実の下に、三下り半の離縁状で勝手気まゝに妻を逐ひ出すことが出来た。これに反して妻の方では夫から離縁状を貰はないことには離婚することが出来なかつた。「艶容女舞衣」の酒屋の段の文句の中に、半七の女房お園の父親宗岸の言葉に、「唐も日本も一旦嫁にやつた娘、嫌はれやうが、如何せうが、男の方から逐ひ出すまで取戻すといふわけは無い筈、こりや宗岸の一生の仕損ひ」とある。併し江戸時代でも二重結婚を厳禁したから、妻を離別する場合には、必ず離縁状を与へねばならぬ規定になつてゐた。寛保二年発布の令には、離縁状を遺はさずに後妻を娶つたものは所払ひの刑に処せられ、また離縁状を受取らずに他に嫁した女は髪を剃つて親元に帰し且つその親も、妻を迎へた男も過料に処せられた。
此の如く夫より離縁状を受取らないことには離婚再婚することが出来なかつたから、無法横暴なる男は妻を虐待して顧みず、いかにその妻が離縁を迫つても之に応ぜずに益々苦るしめるやうなことがあるので、妻の中には之に堪へかねて自殺を図つたことも稀でなかつた。此の如き不幸不運の女性が最後に取るべき唯一の離婚手段としては所請縁切寺に駆け込むより外に途がなかつたのである。