縁切寺とは世人の附けた尼寺の名称で、相模の鎌倉の松が岡にある東慶寺と上野の勢田郡新田庄にある満徳寺とがそれであつた。妻がその夫の乱行に堪へかね、幾度も離縁を願つても聞き入れない時には、この尼寺に駆けこんで救助を仰げば、その寺法によつて女の生命と権利とが保護され、こゝに駆けこんだ女は形式的に尼となつて二三年間勤行すると、完全に縁が切れて離縁状が無くとも事済みになつた。こう云ふ寺法は明治三年の頃まで行はれてゐた。その中には姦通したがために夫より殺されんとした不貞腐れの女も寺に駆け込んで危険を免れ生命を全うしたやうなこともあつた。
鎌倉の松が岡にあつた東慶寺は、世俗に松が岡縁切寺と称せられてゐた。「縁 談は出雲、離縁は松が岡」「松が岡女一人で行く所」「榎では取れぬ去状を松で取り」といふ川柳は、いづれも此の縁切寺のことを詠んだものである。この寺は鎌倉時代の初、源頼朝の叔母が尼になつて住持することゝなつたのがその起りで、遥に降て弘安七年の頃に至り、北条時宗の未亡人が剃髪して、この寺に入り覚山禅尼と称した。禅尼はその子の貞時に対し「自分は出家の身だが、女子のこととて世を益すべき智徳もない。凡て女子は三従の道を立てゝ一度は夫に身を寄すべきものであるが、然るにその夫に邪慳非道の振舞をなすものが多いので、愛情も絶え果て、女心の狭さに身を過つ者の往々あることを自分は聞き及んでゐる。実に憐然の次第であるから、此様な不幸の女性のあつた時には入寺を致させ、三年の間仏事修業の名の下に邪悪なる夫との縁を切らすことをば寺法と定めて薄倖の女を救ひたい」と懇願したので、貞時はその旨を朝廷に申出でて天意を伺つた処、禅尼の意に任すべき旨勅許を賜つたので、右の寺法を立つることになつたのである。
それより第五世の用堂尊尼は後醍醐天皇の皇女で、当寺に入り薙髪された御方で、此頃より鎌倉松が岡御所と唱へ、ながく紫衣を賜ることゝなつた。そして縁切り入寺の期限を短縮して二十四ヶ月即ち二年となすことに寺法を改定した。第二十世天秀禅尼は豊臣秀頼の息女、徳川秀忠の孫女で、大阪の戦役後、天樹院の猶子となり、家康の命によつて元和元年当寺の住持となつた。第二十一世永山禅尼の入寂以来は当寺の住持の跡が絶え、其後も適当の資格を具へた尼僧がないので、当寺内の蔭凉軒の住職が東慶寺のことを執行するやうになつた。
されば鎌倉の東慶寺が所請縁切寺としての特権は、鎌倉時代に於ける北条時宗の未亡人覚山禅尼の発願によつて開始され、その後、用堂禅尼に至つて三年の縁切入寺の期限を二年に短縮することになつたのである。当寺の寺法は無法乱行の夫のために不幸不運の窮地に陥れる薄倖の女性を保護救済するにある故、その救護を仰がんがために婦人が足一歩でも寺の境内に踏み込んだ以上は如何に執拗な夫が追跡して来ても、最早や施すべき詮もなく、若し寺内に乱入して女を奪ひ去るやうなことがあれば、男禁制の寺内に乱入したといふ廉で寺社奉行に告訴せられて厳刑に処せられ、且つ否応なしにその妻を離別しなければならぬ規定になつてゐた。
入寺の婦人は食料自弁といふ制規であつたが、若しそれが出来ない貧窮なものには職業を授けて衣食の料となさしめた。大名の奥方や高貴の夫人の中にも往々入寺する者もあつたが、此等の身分のある婦人達は敢て剃髪することも無く、またこれと云ふ勤めもなく、唯だ説教を聴聞したり、書物を読んだりして居れば、それで可かつた。さて年限の満ちた時は寺を出でゝ何処へ嫁することも女の自由であつて、前夫より何等の故障をも申込むことは出来なかつた。