上州新田庄の満徳寺の寺法も前者と畧ぼ同様であつた。この寺は天正十九年に設立された尼寺で、その開山の浄院尼公といふのは、新田義季の息女であつたから、此寺の住持は新田家の血統なる徳川家の息女が累代相続することゝなり、東慶寺の如くに縁切寺たるの特権を有し、此寺に駆け入つた女は尼になつたものである。徳川秀忠の息女で豊臣秀頼の夫人であつた仙姫が大阪の戦役後此寺に入つて離縁の趣意を立て、本多家へ再嫁したので、その代りに刑部局が住持となり、中興開山俊澄上人と称した。爾来引き続いて徳川家庇護の下に、住職の相続し、寺法を維持してきたので、こゝに駆けこんだ女は三箇年間在住した上、頭髪を切つて夫の方へ贈り、離縁状を受け取つた後は他に再嫁することが自由になつてゐた。
東慶寺の方では縁切り入寺の期限は二年であり、且つ別に刺髪せずとも満期に達したならば離婚の目的を達することが出来たが、満徳寺の方では三箇年の期限で一年多く、且つ髪を切つて夫へ贈り離縁状を請求せねばならぬ不便不自由があつた。それ故、縁切の目的を容易に達せんとするものは大概松が岡の東慶寺を選んだと見えて、江戸時代の川柳に縁切のことを詠んだものには主に松が岡や鎌倉の名が現はれてゐる。
東慶寺に駆け込んだものは、地理の関係上、江戸の女が多かつた。「松が岡江戸のうちから聞いて行き」「十三里独で行いて縁を切り」といふ川柳にもある通り、江戸と鎌倉との距離は十三里であつて比較的に里程の少いがため、東慶寺を指して駆けこんだことも、此寺に入つた女の多かつた原因の一である。寺に女が駆けこむと、寺よりは「松が岡御所役所」と云ふいかめしい名義で、その女の親族或は媒酌人を召喚し、夫へ直接に掛け合して内済に離縁話を取り纒めるやうに干捗することになる。何といつても此寺は鎌倉時代以来、格式のあり権威のある尼寺であるから、流石無法非道なる夫もその権威に恐れ入つて離縁状を書くのが普通になつてゐた。しかし、その中には飽迄も執念深く附き纏つて離縁を承諾しない者もあるので、斯う云ふ場合には、その女は巳むを得ず、形式的に尼となり、規定の年月間在住しなければならない。川柳には「鎌倉の松に三年身をかくし」「松風を有髪の尼で三歳聴き」とあつて、三年間寺に在るものゝやうに詠んであるが、前述の如く入寺の期限は二十四ヶ月の寺法であるから、言葉の上では三年であつても、事実は足かけ三年、正味は二年であつた。
此の如く東慶寺は武家時代に於ける薄倖不運の婦人を救護せし唯一の社会的機関であつて、その恩恵を受けた婦人は、此寺の創立された鎌倉時代より明治三年に至るまで凡そ六百年間、幾許であつたか、殆ど算へきれない程多数に達したことゝ想はれる。ことに男尊女卑の風の最も甚しく、極端に女性を圧迫した江戸時代に於て、この権威ある尼寺が不運不幸なる女性の擁護者救済者となつたことは、日本女権史上特筆すべき重要事実の一である。
此の如き次第だから江戸時代の横暴なる男子の中には東慶寺に反威を抱いた者も可なり多かつたと見え「松が岡男の意地を潰すとこ」と云ふやうな川柳もある。また此寺に駆けこむ女をば我まゝ気儘な勝気の女のやうに解して「情のこわそうなが這入る松が岡」「鎌倉のさばきを受ける気の強さ」といふ川柳もある。しかし、江戸から遠路をたどつて鎌倉の東慶寺に駆けこむやうな女性は意志の余程鞏固な者であらねばならぬ。江戸から鎌倉に往く途中には六郷川と云ふ難関の渡場であつて、それを女一人の身で無事に突破することは決して容易でなかつた。「六郷でやうやう婦をとらまへる」「其船此処へと云ふうち追ひ手くる」とある通りこの難関で追手に捉へられた者も多かつたらしい。それをうまく切り抜けて鎌倉さして行くには気象の丈夫な女でなければ駄目である。
一利一害は数の免れざる処で、薄倖なる女性の唯一救護機関であつた縁切寺も、時には不貞の女に利用された形跡もある。それも川柳に概して明かで、例えば「路考茶を着て飛びこむ松が岡」といへる句の如きは、当時盛んに流行した女形俳優瀬川路考(菊之丞)好みの茶色の着物を着るやうな淫奔不貞の女で亭主との縁を切りたさに東慶寺に駆けこんだ者のあつたことを暗示したものであり、また「悔しくは尋ねきてみよ松が岡」「鎌倉へござれ甘酒進上なり」とあるのはいかにも寺に駆けこんだ女の不貞莫連さを暗示してゐる。彼の自由廃業と云つて遊廓を脱出し警察署に飛びこんで楼主の虐遇を訴へ売笑稼業を免れんとする近代の娼婦の中にも、手におへない莫連者の尠く無いのと同様に、江戸時代に於ても、不貞淫奔の女房に縁切寺を利用した者のあつたことは想像するに難くない。