「不義は御家の御法度」とあつて、武士の家に於ては主人或は親の眼を偸み私通した男女は共に打ち首になつた。けれども元禄以後は武家の風儀制裁も弛緩して、私通した娘を窃かに裏門より遁がし離籍することが多くなつた。享保の末より元文にかけて武家の娘の駆け落ち沙汰の多くなつたことは、「窓のすさび」に「貴人の息女婦人など出奔のこと、聞きも及ばぬことなりしに、今は常のことゝなりて耳をそばだて聞くもの無きが如くなり」とあるに徴しても明かである。しかし、固より家名に関する不詳の出来事だから、苦肉の手段によって世間の風聞を止めさせた者もあつたと見えて、同書に、ある旗本の娘が若侍と私通して出奔せしに、その父少しも騒がず、三日うち続いて客を招待して遊宴し、これによつて世間の取沙汰を止め、出奔した男女に金五十両を与へて安楽に暮らし得られるやう取り計つたので風説も無くて止んだといふことを記してある。「西鶴諸国咄」には、或る大名の姪が若侍と駆け落して、男は膏薬を売り、女は手馴れぬ洗濯業をして陋巷に困苦してゐるのが発覚し、侍は刑死に処せられ、女に自殺を勧めると、「人間に生れて女の男一人持つこと作法なり、己より下の男を思ふは縁の道なり、有夫の婦と異り、男なき女の一生に一人の男もつは不義にあらず」と言ひ張つたことを記してあるが、江戸時代に於ても此様な新しい女があつたものと見える。「即事考」にも武家の娘や奥方の駆け落した実例を列挙し、文化元年には五千石の旗本の娘が琴針を教へし盲人と家出し、文化十二年には一万石の大名の娘が抱への歩徙と出奔したが、三浦辺にて捕へられ、帰家の後、半年余は座敷牢に監禁、後家某の養女として或る与力に嫁せしめたことなどを記してある。されば男女関係の厳重であつた江戸時代にても、御法度の不義を犯して愛人と出奔した女性の尠く無かつたことが判かる。
啻に私通ばかりでない。自由婚約さへ御法度として禁止されたことがある。宝永七年、前橋藩では「御家中召使の男女、親も存ぜざる内証にて夫婦の約束致候ものは密通同然の仕置に可被仰付候事」と布令した。しかし、私通や自由婚約の禁止され処刑されたのは武家に限られたもので、町民間にても所謂親の許さぬ恋ひ仲は否定されたにしても、併し之に対する法的制裁は無かつたのである。即ち未婚の男女の私通は、道徳上には絶対に許されなかつたけれども、処刑さるゝ心配は無かつた。但しそれにも例外は在つた。未婚の女性であつても既に縁談の極つたものと私通したものは追放の刑に処せられ、女は剃髪を命ぜられて親元へ渡される規定となつて居り、また主人の娘と通じて駆落したものも同様の刑に処せられ、姉妹、伯母、姪の如き近親の女性と私通したものは遠島の刑(流罪)に処せられた。
女子の貞操が極端に重んぜられた江戸時代に於ても、町民間にては、不義と称せられた私通も、それが有夫姦に非ざる限りは、必ずしも貞操問題を以て律しなかつた。例えばお染久松の浄瑠璃に徴しても分かる通り、この若い男女の私通に対しては、久松の父親の久作は息子を責めて犬畜生とまで罵つてゐるが、之に反して女の母親は娘に同情して「女の道を立て通す娘を叱つて二人の夫を持たすも世間の表向き、無理な親じやと必ず恨んでたもるなや」と云つてゐる。是に由て之を観ると、たとひ親の許るさぬ不義私通であつても、それが年の若い未婚の女性であれば、その相手の男は既に定つた夫と云ふことになつてゐる。それ故、お染も久松を夫と心得、山家屋へ嫁することを男より勧められても「女の道に背むけとは聞えぬわいの、胴慾な」といつて飽迄それを拒否した。つまり私通の間柄でも、一人の男さへ守つて居れば、女の道に協つたものと認められてゐた。これは固より浄瑠璃にあらはれた異様の貞操観念であるが、彼の為永春水の名著「梅暦」の如き小説に於ても、世人がそれを誨淫小説と非難するに対する弁解として「此糸、長吉、お由、米八の四女、いづれも皆貞操節義の深情のみ、一婦にして数夫に交り、苟も金のために情慾を起し横道せる振舞なし」といひ「貞烈いさぎよくして大丈夫に恥ぢず、婦徳正しくして能くその男を守る」といひ。花柳狭斜の女でも一人の情夫を厳に守つて居れば婦徳に悖る処がないと釈明した。されば私通の間柄でもその相手の男をば心の底より夫と看做して貞操を守る以上は、「女の道」に背むかざるものと思はれてゐたのである。此様な思想も「貞女は二夫に見えず」と云ふ貞操道徳に基因してゐるので、よしや不義徙らの関係であっても既に心から夫と許したものに貞節を守つた女性に対しては、自由恋愛の絶対に排斥せられた江戸時代に於ても賞讃されたものである。「忠臣蔵」のお軽、「妹脊山」のお三輪などは固より戯曲上の人物であるが、矢張り貞婦の鑑として世人は同情の涙を惜しまない。
不義は御家の御法皮と厳禁された江戸時代でも、有夫姦に非る限り、また相手の男子一人を守つてゐる限り、「徙らもの」に対する制度の寛大であつたことは、貞女は二夫に見えずといふ貞操道徳に基因せるものであるから、時と場合とによつては娘の恋を遂げさせやうと思つて身を犠牲に供した父親さへあつた「鬼一法眼三畧巻」の菊畑や「箱根山霊験記」の九段目などには這般の悲劇が描かれてある。