二(私通に対する制裁の比較的に寛大であつたに反し)

私通に対する制裁の比較的に寛大であつたに反し、有夫姦即ち姦通に対する制裁は極めて厳酷であつた。寛保以前までは姦夫姦婦を共に磔刑に処したものである。それは近松の「大経師昔暦」の文句の中、おさんが雌猫に向つて話す言葉に、「コリヤ、男持つなら、たつた一人もつものぢや、間男すれば、はりつけにかゝる」とあるに徴しても明かである。然るに寛保三年に至て、主人の妻と姦通したものは引廻しの上獄門、女は死罪、これ以外の姦通は男女共に死刑に処し、刑罰の程度を緩くした。所謂「お定め百箇条」の中に「密通致候妻は死罪、密通の男も死罪、主人の妻と密通致候もの、男は引廻しの上、獄門、女は死罪」とあるのは、寛保年代に改定されたものである。また姦夫がその姦婦をして実夫を殺さした場合は、その男は引廻の上、獄門に処せられ、実夫を自ら殺した姦婦は引きまわしの上、磔刑に処せられた。また姦通の現場を発見した時には、その場で姦夫姦婦を四つ斬にしても敢て差支の無いことが本夫に許してあり、また姦夫姦婦が手を携へて逐電した場合にも、本夫は彼等の行衛を探し出し、見つけ次第、重ねて斬り殺すことも許されてあつた。所謂「妻敵打」といふのが是れで、享保以前には可なり多く行はれた。近松の傑作の一なる「槍櫂三重帷子」「堀川波の鼓」は妻敵打事件を脚色したものである。また本夫が妻敵打をなすの際、若し姦夫のみを殺した時には、姦婦を死罪に処するが、若し万が一姦婦を取り遁した時には姦婦の処分は本夫の心まかせにすることに規定されてあつた。但し本夫がその姦婦の助命を願ひ出でた時には、その女を非人手下に申しつけ、新吉原へ年季奉公に渡したやうなこともあつた。

此の如く江戸時代では姦通に対する刑罰制裁の極めて厳酷であり、且つ一面には貞操道徳の極端に強制せられて女の二夫を見ゆることを許さず、仮令ひ許婚の間柄でも若し夫と定まつた男の死亡したならば断じて再縁しなかつた程、女子の貞操に対する制裁の極めて強かつたにも拘はらず、意外に姦通をなすものが多かつた。それが社会に知れ亙つて小説や戯曲の材料となつたものには、西鶴の「好色五人女」中の樽屋お仙に、お三茂右衛門、近松の「大経師柱暦」のお三茂兵衛、「槍の櫂三重帷子」のおさい(本名とよ)権三(本名池田文次)「堀川波の鼓」のおたね、宮地源右衛門(本名宮井伝右衛門)、松貫四、吉田角丸の「恋娘昔八丈」の材料となった白子屋おくま、忠八等であるが、併し世に顕れずして済んだ姦通の多かつたことは、江戸時代の風俗詩とも云ふべき川柳に姦通に関する句の頗る多いのに徴しても明白である「町内に知らぬは亭主ばかりなり」の有名なる句を始め「旅の留守、内にも胡麻の蠅がつき」「あの人と亭主は夢にだも知らず」「白壁を見ろと去状ぶつつける」「間男をすると女房こわ意見」「金五両取るべら坊に出すたわけ」などの川柳は、いづれも姦通のことを詠んだものである。

男女の別が頗る厳重であり、貞操道徳に対する強い制裁のあり、姦通に対する刑罰の厳酷であつたにも拘らず、意外にも姦通沙汰の多かったのは何故か。私は之に関する種々の原因事情を考察したい。