三(江戸時代に於て姦通の多く行はれた原因として)

江戸時代に於て姦通の多く行はれた原因として、先づ第一に挙げねばならないものは、女子に離婚の権利のなかったことである。夫婦の関係は命令と服従とばかりで、双方の間に何等の理解もなく、趣味の一致もなく、愛情の無くとも、父母や主人の強制で結婚せねばならなかつた上にも、その夫が如何に放蕩乱行を恣にして家を顧みなかつても、妻には離婚を請求する権利がなく、一生涯夫の下に忍従せねばならなかつた。夫の方では自己の意志のまゝに三下り半の離縁状で、容易に妻を離別することが出来ても、妻にはそれが絶対に許されない。妻の取るべき最後の唯一の手段は、所謂縁切寺に駆け込むより外になかつたのである。縁切寺は鎌倉なる東慶寺と、上野国新田庄の満徳寺といふ尼寺で、妻がその夫の虐待乱行に堪へかね、幾度も離縁を請求しても聞き入れない場合には、この尼寺に駆けこんで救助を仰げば、その寺法によつて女子の生命と権利とが保護されたもので、明治三年の頃までも寺法が実施されてゐた。併し遠路をたどつて縁切寺に駆けこむやうな女性は意志の余程鞏固なもので、一般の女性には、とても鎌倉や上野の新田庄にある寺にまで駆けこむ勇気もなければ路銀もないから、已むを得ずを呑んで嫌やな享主と同棲しなければならない。此様な事情は江戸時代に姦通の多く行はれた原因の一である。姦通に対する刑罰の厳酷でも、恋愛の前には盲目となるのが必然の人間性とすれば、いかに夫の乱行を逞うしても自分より離縁することの出来ない女性が冒険的に姦通罪を犯し、今日の所謂三角関係の起り易いのも決して不思議ではない。

第二の原因は女子に性慾満足の機会が充分に与へられなかつたことである。演劇や小説に徴しても明かなるが如く、江戸時代に於ける男子の享楽世界の主なるものは実に花柳狭斜の巷であつて、吉原の遊廓を始め、深川、その他の岡場所は肉慾の天国として憧憬せられた。刹那の快楽を求め、デカダン式の生活を楽んだ彼等は、茶屋酒に醉ひ売笑婦に狎戯して遊興するのが何よりの歓楽であつて、花柳の巷を知らない者は野暮の骨頂と罵られた。「傾城を知らぬ男は罵られ」「女房に附きについてゐるたわけ者」「惜しいこと、あつたら息子律義なり」などゝいふ川柳は実に這般の消息を穿ったもので、女房一人を守るやうな男は腑甲斐ない人間と罵られた。江戸時代に於ける夫婦関係は唯だ家の血脈をつなぐがための結合であつて恋愛を認めなかつたから、放縦なる男子は自由恋愛の究竟極を花柳の巷に求めるやうになり、酔生夢死主義に堕して妻に空閨を守らせるものが多かつた。「柳々で世を面白う、受けて暮らすも命の薬、梅に従ひ柳に靡く、その日その日の風次第、嘘も誠も義理もなし」といへる俗謠に徴しても、如何に軽浮なる男子が女色を弄んで一夫多妻の放縦なる生活を享楽したかを知り得られる。されば夫の放蕩淫逸に対する憂さ晴らしと、抑へきれない性的満足の要求とが姦通の原因動機となつたことは事実疑ひなき処である。「間男をすると女房はこわ意見」といふ川柳は蓋し当時代に於ける下層社会の女子の心理を穿つたものである。

第三の原因は交通機関の不完全なりしがため夫の旅に出た留守の間の長かつたことである。交通の最も開けた東海道五十三駅を踏破するのさへ十三日を要し、一日の平均旅程は九里半強である。しかも途中には箱根、鈴鹿の両峠があり、宇都、小夜附近も山路である。多少駕籠や、馬を利用するにしても決して楽な旅では無く、如何に早く急いでも十日を費した。東山道駅六十九駅も早くて十二日の旅程であつたから、単に往復するのみでも半ヶ月乃至一ヶ月を要した。それに戦国割拠の余弊を受けて、山間不便の道を旅道とし、ことさらに大河には橋梁を架せず、東海道の大井、天龍、富士の諸大河、江戸に近い六郷川の如き、或は雲助の肩に乗り或は船を傭ひて渡るやうになってゐたので、若し、洪水の出た場合には河止めになつて徙らに旅の日数を重ねるのみであつた。此の如く交通が不完全でありて、夫の旅に出た後には妻が空閨を守る日数も長く、随つて誘惑に乗せられ易かつたことも姦通の多く行はれた原因の一であつた。「川止めの状を二人で読む憎くさ」といふ川柳は、洪水のために河止めとなつたので、本夫の旅から帰る日の遅くなつたのを姦夫姦婦が喜びながら、川止めの知らせ状を読んでゐることを詠んだものであり「旅の留守宅にも胡麻の蝿がつき」とあるのは、夫の旅へ出た留守中に姦通の行はれたことの多い事実を語るものである。それから国元より江戸表にある藩邸に参勤交代する武士は、その妻を国元に留め置き、長い年月の間、空閨を守らせたことも亦た姦通の多く行はれた原因の一であつた。近松の傑作「槍權三重帷子」「堀川浪の鼓」の如きは、夫の江戸詰の留守中に出来た姦通事件を脚色したものである。

第四の原因は、姦通は酷刑であつたが、併し本夫の心次第でその罪を宥すこともあれば、姦夫の方から金を出させて贖罪せしめたことも当時姦通の多く行はれた原因の一であつた。所謂間男七両二分と云つて、これだけの金を出せば事済みになつたことも多い。最初は姦通のために死罪に処せられた者があれば一人毎に七両二分づゝを高野山に納めてその菩提を弔つたのであるが、然るに姦通事件の内済の多くなるに従って姦夫の方が死罪になった積りで、高野山に納入する金額をば本夫に提供して謝罪するやうな風習を生じた。これが即ち「間男七両二分」の諺の由来で、天保時代に出た大津絵飾に「高いも安いも色の道、間男は七両二分、おいらんは三歩で、女郎衆は一歩に二朱云々」とあるのを見ると、間男七両二分は既に天保以前より起つたことが分かる、此の如く金銭の提供によつて姦通が内済となったので、姦通を女郎買同様に心得た非倫悖徳の思想が社会の暗々裡に行はれたことも姦通を多からしめた一原因であつた。家門の名誉を重んずる武士社会には、固より此様なことは無かつたらうが、町民間では贖罪金で姦通の内済となる以上、それを可いことにして淫蕩の男子が人妻を誘惑したのである。