欧米の大都市には男娼Mannliche Prostituirten なるものがあつて、専ら、同性愛を好む者を顧客としてゐるが、我国には此様な非倫の醜業者は無い。さりながら江戸時代に於ては、天保の頃に至るまで、江戸、京阪等の都市に、色子、蔭間等と呼ばれた男娼があつて、一方には同性に色を売り、一方には女性の相手ともなつた。
抑々男子間に於ける同性の愛、所謂男色は夙に奈良朝時代に起り、平安朝時代に及んで漸く盛んとなり、更に足利時代に至つて大に武門の間に行はれたが、併し未だ男娼なる者は無かつた。然るに江戸時代の初期に至つて始めて公然色を売る美少年が現はれるやうになつた。それは若衆歌舞伎の流行以来のことである、蓋し若衆歌舞伎なる演劇は当時なほ戦国時代の余風を帯びて男色の流行してゐたのを奇貨として起つたもので、京都にては元和三年、大阪にては寛永年代、江戸にては寛永元年に起り、女歌舞伎と共に流行したが、寛永六年女歌舞伎の風俗を乱すことが甚しいので、これが禁止になつてより若衆歌舞伎は益々盛んとなつた。しかし、その技芸は、女歌舞伎の美女に代ふるに美少年を以てした差異のある許りで、美少年が二三人或は数人で手踊をなし、また歌舞のあしらひに能の間狂言めいた者を演じた。室町時代より江戸時代の初めにかけて男色の盛んに行はれ、武士僧侶の之を好むものが多く、且つ武士道の慣習はこの不自然な悪風を却て奨励する傾きがあつたから、機を見るに敏なる輩は、彼の佐渡島の女歌舞伎が遊女を飼として顧客を釣つた如くに、美少年の歌舞を以て当時に於ける人心の弱点に投じたのである。
されば若衆歌舞伎は一時上流下流を通じて愛玩せられ、大名旗本の中にも俳優を邸宅に招いて演伎をなさしめたことも多く、また自ら劇場に出入した者も尠く無かつた。そのため、美少年の色に溺れて風紀を乱す弊を生じてきた。「京童」にも記せるが如く「これに魂を奪はれて有頂天になつて通ふ。それのみならず、大名高家へ召し出だされ、御洒宴の御相手に酌などになり」て男色の弊が伴つてきたので、慶安元年、幕府は令を発して「この以前も申しつけ置きしが如く、踊子役者衆色の儀につき、無体なる儀、堅く法度に被仰付候間、若し違背仕候はゞ、穿義の上、急度曲事に可被仰付候」と布達した。是に由て之を観ると、その前にも同様の禁令が発布されて若衆歌舞伎役者の男色を禁じたことが分かる。しかし、これが少しも効のなかつたのみならず、益々その弊風の盛んになつてきたので、承応元年、江戸の町奉行は断乎として若衆歌舞伎を禁じた。然るに同二年、物真似狂言尽しと云ふ名の下に之を再許したが、男色の弊を防がんがために俳優をして前髪を剃らしめ、野郎と改称せしめた。
若衆歌舞伎禁止の動機となつたのは、当時の江戸奉行たりし石谷将監が或家に招かれた時、その座席に美しい小姓が洒の相手をなし、動作進退の悧発なので、将監は傍に居る客に、彼は何者の忰にや、吾が親しいものが恰度小姓を求めて居れば、彼を周旋してみたいと云つた処、彼の若者は堺町の若衆歌舞伎役者なれば、御身などの口入せらるべきもので無いと答へたので、将監は愈々若衆歌舞伎の弊害あることを悟り、直ちに部下を駆つて、歌舞伎役者の前髪を剃らしめたといふ。しかし「徳川実記」に記する所に依れば、承応元年六月二十五日、在大阪保科弾正正貞の宅で、松下隼人正重継と植村帯刀康朝が、若衆のことで争諭したことから、前髪の剪除令が出たとある。