しかし、若衆歌舞伎時代には、役者が同性愛を好む男子の相手となつても、別に金銭を要求することも無く、従つて揚代の定めもなかつた。「男色大鑑」に「若衆をあまた抱へ、これで世界の花踊り、塩屋九郎有衛門座に具し岩井歌之介、平井静馬など申せしは、末代にも在るまじき美児なり。此の外、四十五人の舞子ありしが、いづれが嫌や形気なるは一人もなかりき。その頃までは昼の芸して夜勤めといふことも無く、招けばたよりて洒事にて暮らし、執心かくれば世間向きの若道の如く、その人に念比すれども誰れ咎むることもなし、太夫元にも欲を知らず、物にもならぬ客を深うもてなし、その年の暮に丹後鰤一本に塗樽に入りし酒三升、盆前なれば三輪素麺十把もらって、これにも礼状をつかはしける」とある。
されば若衆歌舞伎が都下の風俗を乱したとはいへ、未だ男娼までには堕落して居らなかつた。「世間向きの若道の如く」とあるやうに、意気の投合したものに対して身をまかせたに過ぎなかつたらしい、然るにそれが男色を売るやうになつたのは野郎歌舞伎と改称せられてより以来のことである、幕府の当局者が若衆俳優の前髪を剃去せしめて野郎頭としたのは、剃り立て頭を以て美少年の容色を奪ふものと思惟したからであるが、しかし、俳優の方ではその野郎頭の没趣味を掩はんがために、或は頭に綿をつけ、頭巾で頭部を隠し、或は前髪を剃つた跡へ色染めの布帛を置きなどしたが、最も多く行はれたのは置き手拭といつて、三尺許りの色絹を鉢巻のやうに額にあて、その一端を長頭巾の如く後方に下げて舞台に現はれた。処が承応の末、万治の初め頃より、この置き手拭の代りに、前髪へ附け髪をして之を前髪髷といつた。然るに幕府当局者は之を以て弊害ありと目し、寛文四年令を発して髷を用ゆることを禁じた結果、前記の置手拭が発達して所謂野郎帽子といふものを生じた。その最初は黒い頭巾を前頭にあてたものに過ぎなかつたが、天和の頃に至つて、方形なる絹の四隅に鐘をつけて前頭に載せるやうになり、元禄に入つてよりは、その地を縮緬にし、色を紫にするやうになつたので、却つて優美の趣を添へ、男色の悪風を益々増長することになつた。
当時に於ける彼等の風姿は、ゆかりも深き若紫の野郎帽子に前額を掩ひ、女の如くに紅色の湯巻を纒つたもので「男色大鑑」には、当時名高い京都四条の野郎五人の姿容を描いて「ひとりひとりの身振り、先づ竹中の浅黄かへし、下着には中は紅鹿子、上は鼠繻子の紋つき、白羅紗の羽繊に小島つくしの唐衣の裏をつけ、八所染の胸紐解で、白柄の長柄ぬき出し、左に少し身をひねりて座し笑へる口元の曲むになほしほらし。藤田は白小袖の上に我が名を含ませ、紫縮緬の二つ重ね、なほまた羽織帯までも同じ色の帽子、しめやかに身をかため、息使ひまで自然の若衆に具はれり。袖岡は黄なる肌着に青茶樺茶のしま揃ひ、ぱつとしたる容気、さながら女の如し、光瀬は白き下着に薄色の中形、縫ひ分け縞のうね帯、萠黄、袋うちの柄絲、なで角の金つば、髪結ふさまも一際目だちてぬるき所なく、人の好ける風儀あり。外山は紅の色濃く、白地の書絵の東海道」とあつていづれも夜の盛粧を写したものである。
若衆俳優が野郎を改称せられて男色を売るやうになってからは、揚代を一歩(銀十五匁)と定め、客の求めに応じて茶屋に来り、其処で売色することゝなつた。万治三年、妙心寺の開山関山国師の三百五十回忌の営まれた時、京都へ雲集した僧侶が少年俳優の色に溺れて乱行を恣にし、そのため野郎の揚代が騰貴して銀一枚(四十匁)になつても、なほ大繁昌を極めたことは「男色大鑑」に「諸山の福僧、京着して御法事の後、色河原を見物しけるに、田舎にては見なれぬ少人に思ひこがれ、万事をやめて買ひ出す程に、前髪のあつて目鼻さへつけば、一日も隙なく、これより昼夜に売り分け、花代も舞台踏むは銀一枚に定めぬ」とあるを見ても分かる。