此の如く男娼の初は少年俳優でそれが野郎歌舞妓と称するやうになつてからは、若衆と呼ばずして野郎といひ、その色を買ふのを野郎買ひと云つた。野郎は即ち芝居役者で一に色子或は舞台子とも称へ、客の求めに応じて茶屋にやつて来た。隨つて野郎は娼妓同様になり、その容色や性行を評せる小冊子などが世に出づるやうになつた。その最も古いものは万治版の「野郎蟲」次で寛文二年版の「剥野老」である。この書名は野郎と茶菓子に蒸した野老との同音であり、野老の皮を剥くと、その色の白く綺麗であるので、美少年の美なるに比して斯く名づけたのである。その中に、玉村吉弥の容色を評して「玉の姿は銀漢の月も粧を嫉みぬべし」といひ、阪田市之丞に対しては「顔うつくしく目もとに殺す所あり」といひ、山本勘太郎の色巧者なるを賞して「寝ざめの床の睦言には、あめが下の水の声も山時鳥と共に啼きあかすらん」とある。
少年俳優が男娼に堕落してより以来、その技芸は拙劣でも容色さへ美しければ、第一流の少年俳優として世人に謳歌せられるやうになつた。阪田市之丞といふ役者は、踊りは出来なかつたが、容色が好いので、太夫子即ち第一流の少年俳優となつた。万治版の「野郎蟲」に彼を評して、その踊の拙劣なることを記し「太夫分になりたるが故に、いよいよ勿体をつけらるれど、ならぬことなれば、猪の水を泳ぐやうなることもあり」とある、これは踊が下手なことを猪の水を泳ぐに比したものであるが、併し舞台に立たねば売れないから、拙劣なる踊をやつても観衆に見えたので「浪花の田鶴」にも「舞台を踏まねば若衆が売れず」とある。その頃美形の俳優として世に宣伝されたのは、中村数馬、玉川千之丞、右近源左衛門、瀧井山三郎などで、いづれも売色を兼業とした、元禄六年版の「古今四場居百人一首」には当時に於ける俳優百名の姿を描き、また評判記めきたるものを掲げてあるが、例えば中村数馬のことを記して「男色女色二道のすぐれたこと、右の手にては鈴木平八と威を振ひ、左にては袖岡、松島、谷島と押し合ひ、之を業平芸ときわめ、人々のいざと友を誘ひ、女形の諸わけを見て魂を飛ばし、若衆形にては心を動して、まことに武蔵野の花はこれぞと、日本橋北へ一丁目、にほひ鬢つけ召しませ、白い、黒い、堅い、柔かなる、御望み次第云々」とある、これを見ても、中村数馬などが男女両性に色を売つたことは明かである。そして俳優の副業として鬢つけ店、伽羅油店などを出して男女の客を引きつけるやうになつたのも中村数馬などから起つたことである、宝暦頃の川柳に「悪方は油店など思ひきり」といふのがあるが、これは敵役の役者は世間の男も女も贔負にしないから、鬢つけ店や油店などを出しても、それに託して色を買ひにくるものがないので思ひ切るといふ意である。
野郎を一に色子或は舞台子と称へることは前に述べて置いたが、その中、最も容色の好いものを太夫子と称し、その花代は銀四十匁、普通の舞台子の花代は三十匁と値段つけられ、いづれも遊女と同様に抱へ主があつた。元禄版の「人倫訓蒙図彙」に「狂言役者男子を遊女屋の女を抱へるが如くに抱へ置きて芸を仕入れ、十四五にもなれば、それぞれ芝居へ出し、芸よく名を取れば、吾が家の門口に太筆にて誰が宿と苗字を記し、夜は戸口の掛け行燈に名を書きつけおくなり」とある。但し万治の頃までは武士や僧侶を顧客に有つばかりで、町民百姓の相手にならなかつたらしい。それは万治版の「野郎蟲」に「この頃は歴々のお侍、尊きお長老様なども大方この蟲にさゝれ玉ふと見えたり」とあるを見ても知られる。