しかし、風俗の愈々乱るゝに従つて男娼の種類も増加し、前記の舞台子の外に、蔭間、飛子などゝ云ふ者も現はれてきた、蔭間とは舞台へ出ぬ純粹の男娼を云ひ、飛子とは田舎まわりをする男娼の謂ひで、舞台子に比して遙かに低級なものであつた。かくの如く男娼に太夫子、舞台子、蔭間等の区別のあつたのは、恰も遊女の太夫、格子、局と区別されたのと同様である。
元禄の頃、江戸には堺町、禰宜町、大阪にては道頓堀、京には宮川町が男娼の巣窟地で、之を抱へ置く青楼と子供屋、蔭間茶屋或は若衆屋と云つた。しかし、この外に「男色大鑑」には、京都石垣町に男娼のありしことを記し「雨夜三杯機嫌」には江戸の浅草、神明、目黒、目白などの地にも男娼の住んでゐたことを記してある。いづれも遊女と同様なものであるから、遊女の細見記の如く、野郎細見記、評判記が世に行はれた、遊女の細見記は仮名書きが普通であるが、野郎細見記の中には、狂詩を以て批評を加へたのもあり、また紋所を示す外に、姿を書いて挿入し時好に投じた者も多かつた。
元禄時代は男娼の盛んに行はれるに至つた頃であるが、俳し遊女ほどの多数に達しなかつた。「男色大鑑」に「今の都に太夫子三十一人あり」と見え、元禄版の「簔張草」や「姿記評林」にも三十人内外のものを挙げてあるに過ぎない。但し是等は最も高級の男娼たる太夫子であるから、決して男娼の全数でないが、当時に於ても遊女ほどに多くなかつたことは明かである。降つて男色の非常に流行した宝暦から安永天明の時代に入つても、江戸市内に於ける男娼の数は二百三十余人許に過ぎなかつた。しかし、その巣窟地は甚だしく増加し、「嬉遊笑覧」に「江戸は芳町を始めとし、木挽町、湯島天神、麹町天神、塗師町、神田花房町、芝神明前、その他七箇所は天明の末までありし」といひ、「近年(文政頃)は四箇所絶えて、芳町、湯島明神前のみ残れり」とある。
京都の宮川町には既に元禄頃より男娼を置く茶屋があつて、子供屋と称へた。元禄十四年版の「傾城色三味線」に「宮川町の子供屋の主、不断常香盤もある舞台芸不器用にて、暇日の多い若衆に、枕かへし扇の曲参る参るの仇口やめて、同じ慰みながら、独楽まわしこそ面白けれ」とある、大阪では道頓堀の阪町といふ遊女町に男娼を抱へ置く店が二三戸許りあつた。江戸では蔭間といつたが京阪では若衆と称し、之を置く店を若衆屋といつた。江戸では蔭間茶屋に客を迎へ、また他の茶屋に男娼を送りこんだが、京阪の若衆茶屋では江戸のやうに客を迎へず、遊女の茶屋で男娼を呼び迎へることになつてゐた。そして若衆屋の軒頭には男娼の名を太く書いた行燈を掲げ、その名前は嵐某、尾上某、中村某といふやうに俳優名であつた。それは京阪の男娼は必ず俳優の弟子となつてゐるからである。西鶴の「置土産」に、花山藤之助、松風琴之丞、雪山松之助など、云ふ男娼の名を挙げてあるが、これは作者の作り名である、「守貞漫稿」に記する処を見るに、関東屋といふ若衆の軒行燈に書いた男娼の名前は悉く俳優名で、中村力弥、阪東亀菊、嵐吉弥、阪東鶴三、嵐由之助、尾上千造等の名を列挙し、宝暦版の「絵本小倉の塵」の中にある大阪阪町の若衆店の図書を見るに、中村梅二郎、市川幾世、嵐菊之丞、瀬川染吉、花井藤松等の名を記した軒行燈を掲げてある。