男娼は舞台子なると蔭間なるとを問はず娼婦の如くに客の座敷に招かれて酒の相手となり、また歌舞座興をも演じた。西鶴の「置土産」に

一、花山藤之助 年十四、色白にして目つき善く、嘉太夫節語り申候

一、岩瀧猪三郎 年十六、踊上手、投げ節うたひ申候、風儀そのまゝ女の様にやはらかに生れつき申候

一、夢川太六 年十六、酒ぶり幾人様のお相手にも成り申候、三味線よく弾き申候、旅子の内では衣裳あつぱれ着せ申候

一、松風琴之丞 年十七、影人形よく使ひ申候、この外、口から水を吹き出し、 壁に文字を写し申候

一、深草甚九郎 年十七、物言ひ、この以前の鈴木平八に生き写しに候、何も 芸なく床達者に候

一、雪山松之助 年十九、野郎なり、座に附きたる所、本子と取り違ひ候程に候

以上の人名は作者の作り名であるが、男娼が客席に侍して種々の遊芸を演じ酒興を添へたことは此の記事を徴しても知られる。男娼はいづれも若い女のやうな優しい容貌、繊麗なる体質の持主であつた許りでなく、脂粉を塗り、紅を施して女性に模することに勉めた。されば江戸時代の男色に関する雑書や小説には、彼等の容姿を評するに女のやうに美しいとか、女にせまはしいとか云ふ風に、殆どその美の標準を女性に取つてゐる。例へば「古今役者大全」には、女形の開祖なる右近源左衛門の容姿を記して「むかし男の舞の袖、女かと見れば男なりけり」といひ「男色大鑑」には当時の美少年を評して「袖島市弥、川島敷馬、桜山林之助、袖岡政之助など、美しき上に女の如く、紅の脚布するなど恋を含みてしほらし」とあり「伊藤小太夫に舞台着をきせてそのまゝ女にかはらず」といひ「吉田伊概、藤村半太夫、さながら風情は、絵に残せし昔し名を知る美女めきて時世粧の舞ひ振り、見し人之に泥まぬはなし」とある。

男娼が女装したのは既に元禄期よりのことで「西鶴置土産」に「おなじく女のすなるさし櫛、緋縮緬の二布して少ししたゝるき野郎」とある。最初は悧々しい若衆姿であつたのが、かく次第に女性化して、遂には染色の振袖を着、幅広の帯をしめ、頭髪も鬢を出し、髷も女に擬するやうになつた。これは明和安永以来の風習であって、江戸の男子は一般に気が荒く、男娼になり難いがため京阪地方より江戸に幼年の男子を売り下したものである。彼等は女装して大振袖または中振袖を着し、頭髪も島田などに結んでゐた。しかし、僧侶の客に連れられて物見遊山、芝居見物に行く時には、黒紋つきの振袖、詰袖に袴をつけ大小を差して小姓姿に扮することもあつた。