男娼の流行は元禄期より漸く盛んとなり、宝暦、明和、天明の時代に至つて最も隆盛を極めた。明和版の「菊の園」に依れば、江戸では堺町、木挽町、湯島、芝神明前、その他合せて十箇所に二百三十人の男娼があり、また芳町だけでも百余人もあつたことは「疑問録」にも記してある。京都では宮川町に八十余人、大阪の阪町には約五十人の男娼があつた。またその直段は安永九年版の「清廓三十三番無陀巡列意縁起」には「第二十六番芳町、蔭間の酒夜寺、揚代十二匁、同一分」とあり、文政刊行の「名異世双六」には「芳町、せんこう一本金一歩」とあつて、湯島、七間町のも同値段である。明和版の「堺町吹矢町子供名寄」に依れば、値段は舞台子も蔭間も同格で、仕舞は三両、片仕舞は昼夜共一両二分、外に小花一歩づゝ、他所行きは昼夜共各二両である。

宝暦版の「風俗七遊談」に「先づ舞台子を上品とす。芳町之に次ぐ。芝の神明、麹町、天神湯島はその次なり。赤阪市ヶ谷はその下なり、浅草馬道、本所回向院を下品とす」とあるを見ても亦た以て当時に於ける男色売笑の甚だ盛んであつたことが分かる。宝暦より安永天明にかけて男娼の大に流行したことは「志道軒伝」の中にも「木挽町に引きかゝる客は、身代は大鋸屑の如く、神明参りの帰り足は本地垂跡の両道になづむ。湯島の二階は千里の目を極め、英町の向側は隣よりもまた近し、よごれをふくかやば町、すが眼もまじる神田の明神、外になければ市が谷の八幡前、天神のあたり近き室咲の梅手折らんと、麹町には寝るを楽むの士、気を取らぬ土橋より云々」とあるのを見ても、その一班を推知することが出来る。

男娼は少年時代のみならず、二十三十代の年頃になつても、なほ正業に復することが出来ず、依然不倫の醜業をつゞけた者も尠く無かつた。「好色一代男」の中には世之助が十四歳の時、二十四歳の蔭間を買ふ処があるが「麓の色」には荻野八重桐といふ色子が六十歳になるまでも男色を売つてゐたことを記し、「志道軒伝」にも「四十過ぎての振り袖、頬髭の跡青ざめたるも見ゆ。是等を玩ぶ人は好の至れるなり」とあるが、多くは十歳頃から二十歳位までを男娼の限度とした。堺町、木挽町は男色の本場として名高かつたが、湯島の蔭間茶屋も門地の高い上野の僧侶を得意客としたので男娼の数も可なり多く、一軒毎に割り当てると、多きは七八人、少くて三四人許りもあり、その定客は上野三十六坊の寺僧であつた。蔭間はいづれも妙齢の婦女子のやうに装ひ、銀の両天に蔦銘の定紋打つたのを頭に挿し、裾模様に立やの字、虚無僧下駄を穿いて、新年の元旦などは振り袖姿愛らしく、追ひ羽根をつく有様など、真の女のやうであつた。但し客の僧侶につれられて広小路の大師の縁日に行く時や山内に招かれる時などには男仕立てにて外出するが常であつた。その中にも世に評判の高かつた蔭間は、藤村屋抱への力松といへるもので、女のやうに美しく、上野三十六坊の院主三十六人まで悉くその客となつたので、力松の名は湯島より上野にかけて響き渡つたといふことである。

男娼の流行時代には芝居茶屋にも舞台に出ない蔭間を呼びよせ或は客の求めに応じて舞台子をも招き酒色の相手をさせた。色子や蔭間は、もとは堺町、葺屋町の大茶屋に同居して嫖客の相手になつてゐたが、芝居の隆盛に赴くに従つて彼等の人数も増加したがため、芳町に移つて格子戸に柿色の暖簾をさげた蔭間茶屋が軒をならべるやうになり、客の招きに応じて茶屋に通つたものである。彼等の住居区域は堺町、葺屋町、木挽町の三町に限られ、親の病気或は自己の病に因る帰郷や湯治以外には他所へ行くを禁ぜられたが、しかし、固より表面上だけのことで、客につれられて他出することも多かつた。そして彼等は同性の他に異性にも色を売つた。女のやうに紅色の蹴出しを纒ひ、黒塗りの下駄を履いて歩く美しい優しい彼等の姿は、恋に渦せる御殿女中、浮気後家の愛欲を唆らずに居らなかつた。「中条でたびたび堕ろす蔭間の子」といぶ川柳にもある通り、蔭間を買つて姙娠し、堕胎専門の中条流の女医の処へ往つて堕胎して貰つた女も尠くは無かつた。御殿女中やその他の女性が蔭間と媾曳する密会所といへば大抵芝居茶屋で、その中にも劇場の裏通りにある中茶屋小茶屋は特に秘められた歓楽境であつた。