男娼には前述べた如く、舞台子(色子)蔭間、飛子の三種があつたが、しかし、なほ此他に二種の特異なる男娼があつた。一は香具売といひ、表面は伽羅沈香等の香具を桐の箱に入れて売るを業とし、武家の邸宅に出入しては、長屋住の武士を迷はし或は寺院に入つて僧侶に色を売つた。寛永頃から起り、元禄時代に最も流行したもので「好色一代男」に「十五六なる少年、鹿の子繻子の後帯、中脇印巾着もしほらしく、高崎足袋筒短かに、がす雪踏をはき、髪は髱少なに、髷を大きく高く結ばせて、つづきて桐の挟み箱の上に小帳十露盤をかさね、利口そうなる男の行くは、人の目に立たぬやうに拵へて見る程美しき風情なり。是なん香具売と申す」とある。芝神明のあたりはその巣窟であつた。

他の一は小草履取といひ「昔々物語」に記する所に依れば、十五六歳位の美少年で、下には絹の小袖、上には唐木綿の袷を着、伊達な帯をしめ、脇差をさして、客へ馳走にも給仕にも出しまた供にもつれた。この小草履取に就て屡々喧嘩口論が起り、また主人も裕福な者でなければ之を供にすることが出来ず、慶安の頃一時止んだが、その後寛文の頃に至つて、一盛り流行したこともあつた。しかし口論紛擾が復たもや起つたので、いつしかその跡を絶つて了つた。

江戸幕府は吉原の公娼以外の売笑者に対してはあらん限りの高圧手段を執つて禁止撲滅に勉めたにも拘はらず、独り男娼のみは、天保の末葉に至るまで放任してゐた。それは古来武士の間に男色の盛んに行はれたといふ廉によつて看過してゐたのであらう。されば江戸時代の嫖客には娼婦を玩ぶだけでなく、男娼をも愛する者が尠く無かつた。「好色一代男」の主人公世之助の如きはその極端なるもので、一生涯の中に関係した女は三千七百四十二人、男は七百二十五人に達した。尤もこれは小説であるけれども之に類した好色漢は可なり多かつたに違ひない。加之、男娼の中には娼妓のやうに客から落籍されたものもあつた。例之ば藤田小平次が淀屋辰五郎に身受けされ、嵐喜代三郎が紀国屋文左衛門に落籍された如きはその顕著なる実例である。その他、馴染客の僧侶に請ふて寺侍となり或は相応に生活し得られる方法を講じて貰つた者もあつた。かくの如く男色の盛んに行はれたがため、種々の物品にも男娼に囚みのあるものが世に出でゝ時好に投じた。例之ば元禄時代に行はれた野郎紋揚枝、野郎双六、野郎カルタ、野郎姿絵の如きものや、明暦の頃より市井の店頭に飾られた若衆人形の如き類である。また時代相の反映たる文学には、男色を資材とするものも多く、西鶴の「男色大鑑」を始め、「男色花の染衣」「男色十寸鑑」「男色比糞鳥」「男色太平記」等の小説が板行されて世俗の歓迎を受けた。

男娼の衰へ出したのは文政の頃からで、天保の頃には、芳町の如き蔭間の最も盛んなりし処でさへ、抱へ屋二軒、男娼十人、湯島が二十二人、神明が五軒十一人といふやうに非常に減少した。天保四年版の「疑問録」に「宝暦の頃と今とは十分の一にも及ばず」とある。されば天保十三年の禁令と共に男娼は市井より殆どその跡を絶つに至つた。