一 私娼の先駆 ― 女歌舞伎

前述の如く、江戸幕府は公許遊廓以外の地に売笑の業を営む者を隠売女、即ち私娼として之を厳罰し、之を勦滅する方針を探りて風紀の維持を図つたのであるが、併し私娼は到底撲滅せられるもので無く、却って世の太平に伴ふ人心の弛廃、倫常の頽廃、奢侈享楽の発達につれて、その需要に応ずる私娼が殆ど到る処に踵出するやうになった。

江戸時代に於ける私娼の先駆嚆矢と云ふべきものは女歌舞伎である。抑々女歌舞伎なるものは出雲お国から起ったもので、即ち室町時代の末葉たる永禄年代の頃、出雲から京都に出て来たお国が一種の歌舞を演じて、洛中の人気を一身に集めたのがその濫觴である。その創めた歌舞は初めのうちは極めて単純なしかも抹香臭い念仏踊であって、別に芸術的価値を有する程のものでは無かったのであるが、慶長の頃に至って名古屋山三郎なるものが加入してから、その芸風が変化して好色趣味のものとなり、女優が男装して刀、脇差を佩して舞ひ、或は茶屋の女と戯れる男の真似などを巧みにしたので、洛中の人気は益々加はり、慶長八年頃には殊に非常に流行して、その開場する四条川原の小屋は連日観客の雲集すると云ふ盛況であった。そこで此の人気を見て、遊女に歌舞伎を教へ、同じく四条川原に舞台を拵へて観客を集める者が現はれて来た。それは佐渡島正吉といふ女であつたが、爾来女歌舞伎役者は次第に増加し、いづれも組を作って諸国に下り、地方に於ても到る処に人気を博した。

しかし、彼等が斯く人気を集めたのは、その技芸の妙よりも、寧ろその艶やかな容貌と玲瓏玉を転ずるが如き美音とが、当時の男子の鉄膓を溶かすに値したがためであった。されは彼等の中には宴席に招かれて肉を売った者も尠くは気かつた。最初出雲お国によって創められた念仏踊位の程度のものならば、未だ左程に人心を淫靡ならしめるに至らなかつたが、一たび名古屋山三郎と協同してから、歌舞伎の芸風が好色趣味を帯び、そのため人気を博して流行するやうになってからは、之に見倣って肉を売る遊女が、女歌舞伎役者となって舞台に立つに至つた結果、之に種々の弊害が伴って風俗を紊乱するやうになつたのも蓋し必然の帰嚮である。されば寛永五年、江戸に於て女歌舞伎が甚だしく人気に投し、驚くべき流行をなすに至ったので、翌年幕府は断乎たる処置に出で、女歌舞伎を禁止した。之と同様に、京都に於ても所司代は、「国の妨げ、民の煩ひ止むこと無し」とあって女歌舞伎を禁止した。

慶長八年以来、寛永六年に至るまで到る所の都市に歓迎せられた女歌舞伎役者の、売笑を営んで風俗を乱したことは、「京童」の文中に之に溺れた者の状況を記して、「あるは父母の養をかへり見ず、あるは子持が悋気もいとはず、来る日も来ぬ夜も、心はこゝに置いて、倉の銭箱をたゝく。限りある宝に尽きなき戯れを好み、親をしのび、妻をはかれども、あこぎが浦にひく網の、目もしげければ顕はるゝ云々」とあるを見ても明かであり、また林道春の「羅山文集」の中にも、「出雲国淫婦九二者、始為之、列国都鄙皆習之、其風愈々盛、愈乱、不可勝数挙、闔国入干淫坊酒肆之中」と記して、女歌舞伎流行の齎らした淫蕩の風を慨してゐる。

慶長の頃から女歌舞伎が大いに流行に、結城秀康の如き貴公子までが、之に戯れて黴毒に伝染したことを思へば、其の世に害毒を流した有様も想像するに難くない。そして寛永の頃に至って上方から江戸に陸続押し寄せた歌舞伎女が非常に都下の風俗を乱した結果、幕府は遂に女歌舞伎を禁止すると共に女役者を江戸から放逐した。「慶長見聞集」に「遊女共江戸を払はるゝこと」とある記事は即ち之を指したものである。

歌舞伎とは「カブキ」に漢字を当て嵌めたものであって、歌舞の技芸其者に下した名称では無い。「カブキ」といふ俗語は既に天正時代前後の頃から世に流布したもので、「翁草」に記するが如く、専ら殺伐なる行動をなし、或は異様の服装をなす者を云った俗語である。女優が男装をなして舞台に登るのも異様の状をなすものであるから、それを「女カブキ」と云ったのを、後になって女歌舞伎と云ふ優しい当字に改めたのである。

江戸幕府は元和三年、傾城町の外傾城商売致すべからずと規定し、公娼以外に売笑を許さぬ方針となつてゐるのに、既に慶長の頃から大いに発達した女歌舞伎は、元和以後にも都鄙到る所に歓迎されて風紀を乱し、更に寛永に至って、江戸にまで歌舞伎女の非常に流行するに至つたが為め遂に厳禁されることになったのは、私娼の整理を趣旨として公娼を認可した幕府の風紀管理の方針から見てもまた当然の措置であった。