三 芸者

江戸時代に於ては芸者も隠売女即ち私娼と認められた。芸者の前身は踊子といふもので、江戸に於ては「落穂集」の記事に依ると、元禄の初め頃から踊子といふものが起つたらしく、その初めは町家の娘であつて、武士や町民の家宅及び料理屋に招かれて宴席の興を添へたものであるが、幕府は之を隠売女として元禄二年以降享保五年に至る迄、幾度も令を発して之を禁止したが少しも効果なく、元文以来、江戸の風教の頽廃に傾きかけた頃から踊子が流行して、その中には世に盛名を馳せた流行つ子さへあつた。「当世武蔵野俗談」の中に、元文の頃には、立花町、難波町、松屋町を始め処々に踊子があつたが、その中には衛門、お照、お艶などは至極名題の器量物であつたと記してある。此の如き有様であつたので、寛保元年に至つて幕府はまたもや踊子を禁止した。

踊子が芸者と云ふ名に改まつて江戸市中に横行し、盛況を呈するやうになつたのは明和安永以来のことで、蜀山人の「奴だこ」に依れば、此頃から踊子を芸者と称し、また芸者と呼ばずして、しやなどと洒落れたとあるが、併し此の芸者と云ふ名は遊廓即ち吉原の芸者から起つたものである。思ふにそれ迄は肉の他に芸をも売つた公娼が、後には芸を能くせぬ者が多くなつて茲に分業を生じ、専ら肉を売る娼妓と芸を売る芸者との別が起つたので、此の分業上の区別は江戸よりも京阪の方に早く生じた。京の島原遊廓のことを記した「一日千軒」に「太夫天神自ら三絃を弾かざるが故に、たいこ女郎と呼ぶなり。また芸子といふもの外にあり、昔は無かりしを宝暦元年に始まる」と見え、また大阪の新町遊廓のことを描いた「みをつくし」に「たいこ女郎といへるは揚茶屋へ呼ばれ、座敷の興を催すたあのものなり。琴三絃胡弓は云ふも更なり、昔は女舞もつとめしものなり。享保年中より芸子といふもの出来たり」とあるから、大阪に於ては既に享保年代、京都に於ては宝暦の始め頃から芸者のあつたことが判る。然るに江戸の吉原で始めて芸者の出来たのは宝暦の末で、「後は昔物語」に「吉原芸者といふものは、扇屋歌扇に始まれり。歌扇たゞ一人なりし。宝暦十二年頃なり」とある。正徳享保の頃までは吉原の遊女は自ら歌舞を奏して酒興を添へたものであるが、宝暦の末頃に至つて游女は専ら肉を売ることゝなつた結果、芸者なるものを生じたのである。

吉原游廓に芸者が出来てからは、之に対して廓外にも芸者、所謂町芸者なるものが現はれ、明和安永頃から次第に繁昌を告げるやうになつた。「賤の小田巻」に「女芸者流行りて江戸端々游所は申すに及ず、並の処にても芸者の二三人なき町は無し」と云ひ、「蜑の焼藻」にも「女芸者といふもの、ことの外流行りて、下町、山の手いづくと差別なく、少しくみめ美き娘は眥芸者にしたてたり。三味線とても少し許り覚えたるばかりにて、琴弾くは稀なり。たゞ淫楽の友とするのみなり」とある。かくして江戸市中に町芸者が次第に増加流行し、遂に天保頃に至っては娼婦のやうに身を芸者に売る女も甚だ多くなつて来た。深川のやうな岡場所の芸者の如きは、既に文化文政の頃に五十両百両の身代金を借用して出たこと「よもぎ草」にも見え、また「梅ごよみ」の米八の言葉にも「つらい年季の長棹を、淫かして自前と場所をかへ、張りと意地とのふた川へ」とあるから、文化、文政、天保の頃には、自前の外に年季証文の者も既に多かつたことが分る。

芸者が同時に肉を売る私娼であつたことは、既に踊子時代に於て屡々禁止された事実を見ても明かで、寛保元年に踊子の禁止されたのも、「我衣」に記したが如く游女に類する者の多かったがためであるが、併し芸者に売笑の風の盛んとなつたのは安永、明和以来のことで、「世に合ふは、道楽者に驕り者、転び芸者に山師進上」といふ落首を見ても明かであり、また京伝の天明二年の著作、「江戸生麩粹焼」の中に、芸者お艶の「自らと申すは抑々寄る辺定めぬ転び妻」と立派に自白したのに徴しても、芸者自身売笑婦たるに甘んじたことが分る。

寛政の風俗改革は白河楽翁公の英断によつて実行され、芸者を始め、その他の私娼を掃蕩することが出来たが、併し固より一時的であって、たゞ公然市内にその妖姿を現はさなかつた迄であつた。処が文化二年となつて根津の鳥居前に再び芸者が現はれ、深川に於ても享和の初め頃からまたもや芸者がぞろぞろ殖え出して来た。併し幕府の注目を避けんがために彼等は当時亭主持の標徴であつた鉄漿をつけ、眉毛を剃つて有夫なるが如くに装ひ、決して肉は売りませぬ、芸で立つだけですと見せかけたので、幸ひにも幕府の咎責や禁止命令にも遭はずに大いに発展するやうになつたので、深川の游里は文化五六年の頃には、既に寛政改革以前に於けるよりもなほ一層盛大なる紅燈翠閣の地となつた。「奴だこ」に文化時代の芸者の眉を落し鉄漿をつける者の多いことを書いてあるが、これは深川芸者の風が他の游里にも及んだ結果である。

此の如く深川の遊里が文化五六年頃から往時の盛況に復してより、江戸市内にも之に傚つて再び芸者が現出し、更にこの巣窟区域も拡大するやうになつた。安永明和の頃までは、芸者の住居地が橘町、薬研堀辺に過ぎなかつたことは、蜀山人の「通詩選」中にある「芸子行」を見ても分るが、文化文政時代に至っては「寛天見聞記」に記する所に徴するに、芝の高輪、下谷の二長町、両国の薬研堀、同じく柳橋、日本橋の本町、浅草の仲町、下谷の広小路、湯島天神、芝神明辺にも拡張した。そして是等の区域内に於て芸者の居住する場所といへば、大抵神社の門前或は社内或は寺院の門前、寺領であつた。これは如何なる訳かと云ふに、幕府の制度として市井の事件は町奉行の管轄に属してゐるか、寺社に関する事件に至つては寺社奉行の支配下にあつた故、寺社の領域内に起つた凡ての事件に就いては、町奉行は権威を揮ふことは出来ない。一応寺社奉行と相談せねばならなかつたから、慧敏なる私娼連は之を利用し、寺社の区域に属する場所を選んで住居したのである。また一方には欲に眼のない寺社の僧侶神官は、土地の繁昌を欲し賽銭の多きを望む処から、多数の人々を引寄せる手段として魔窟の存在を黙認した。されば眼にあまる売笑事件が多く起つても、町奉行の手によって之を禁止することの出来ない事情もあるので、芸者を掃蕩するに非常な不便と困難とがあつた。

抑々芸者が売笑婦となつたのは既に明和安永時代以来のことで、之がため吉原遊廓が一時甚大の打撃を蒙るやうになり、幕府に訴へた結果、女芸者を召し捕へたことがあり、また芸者を撲滅すべく屡々検挙(当時之を怪動と云つた)を行つて、売笑芸者を召し捕へ之を吉原に下附したが、更に寛政の大改革によつて一時芸者及びその他の私娼を掃蕩するを得たが、固より之を根絶することが出来なかつたのみならず、文化文政の華奢時代に移つてから旧状態に復し、更に年を逐うて盆々盛況に赴き、転び芸者は到る処に輩出したことは前記の如くである。「寛大見聞記」に「転んだら喰はう喰はうと附いてゆく芸者の母の送り狼」とある狂歌を見ても、また以て枕席に侍するを事とする転び芸者の多いことを推知し得られる。

文化文政時代に於ける驕奢淫靡の悪風は、天保十三年水野閣老の大英断によ って一時改革せられ、江戸市内に於ける処々の岡場所は吉原に併合せられ、芸者及び他の凡ての私娼を禁止したので、彼等は公然名乗りを揚げることが出来なくなつた。しかし嘉永元年の春の頃から、またまた禁令が弛み出して、そろそろ魔性の女が再び現出するに至つた。「天言筆記」に依れば、嘉永元年の春頃から、深川八幡前に料理人で小亀といふ者が芸者の元締りとなり、櫓下大黒屋といふ鰻屋、中村屋といふ茶屋などへ客の入り来る時は、之に芸者をすゝめ大酔させた上で、其処へつつぶし寝させるやうにした。これ故是等の茶屋をつつぶし茶屋と云つて大繁昌するやうになつたので、追々名代の料理屋も之に見傚ひ、遂に元の深川同様の盛況に復した。そして嘉永元年八月に幕府の発布した芸者取締の布令は却つて彼等に曲解され、愈々芸者は御免になつたので、深川では益々勢を得て盛んに茶屋の普請をなし、大黒屋の二階座敷などは大道具大仕掛けで、以前の谷中の延命院の座敷の如く、戸棚をあければ隠座敷あり、押入を開けば寝床あり、床の間を押せばぐるりと廻り仕掛けで珍座となる等、その筋の眼を晦ます種々の手段を施して売色を盛んにやつた。斯くの如くにして深川が再び旧況に復してがら、江戸市内に於てもまたく芸者が以前の巣窟区域内に頭角を擡げ出し、追々繁昌するやうになつて、天保の大改革も全く無効に終つた。嘉永以来は外国との交渉が頻繁となり、国内には尊王討幕を主唱する浪士輩が横行して外艱内憂を極めたがため、幕府は私娼撲滅の沙汰どころでは無く、遂に之を放任するが如き結果となつたので、之に乗じて芸者及びその他の私娼は年を逐うて増加発展し、遂に明治時代に入つてからは、江戸時代に隠売女と認められた芸者も芸人の部に列せられ、公然社会を横行し、果は交際界の女王とまで称せられるが如き有様となつた。