徳川幕府の売笑政策は前述の如く、吉原一廓のみを以て公認遊廓となし、それ以外に売笑の業を行ふ者は悉く私娼と看做して之を禁止撲滅する方針を執つた。元和三年吉原の公認遊廓の設置を許した時「傾城町の他、傾城商売不可致」と厳達し、降つて慶安六年にも「吉原町の他、傾城遊女の類、抱へ置き申間敷候」と布令した。しかし者侈淫蕩の風の年の逐うて増長するに伴うて、吉原の公娼以外に種々の私娼が生ずるやうになつた。所謂岡場所といふのは江戸に於ける私娼の巣窟たる遊里を指したもので、その萠芽は恐らくは公娼と同時に生じたものであらうが、併しそれが完全なる遊廓を形成するに至つたのは宝暦年代以後のことである。
岡場所といふ名称の起りは明白でない。しかし朝倉無声氏の説に依れば、岡場所の岡は囲碁の岡目八目の岡と同じ意味に使用されたもので、即ち局外を指す意味であるらしく、当時公認遊廓たる吉原を本場所としたから、それ以外の遊里を局外の場所と云ふ意味で岡場所と呼んだのであらう。その最も繁昌したのは安永天明の時代で、即ち江戸士民の風紀の非常に腐敗した時で、公認遊廓を圧倒する許りの勢を示したから、寛政改革の際に禁止せられて廃地となつた処が多く一頓挫を来したが、更に文化文政時代に至つて死灰再燃し、またもや流行するやうになつた。その結果は再び天保の改革の際禁止せられ、それから後は僅かにその名残を深川の遊里に留めて、曩日の盛況はまた見るに由もないことゝなつた。此の如く岡場所は宝暦の頃に起り天保に廃絶したので、その持続期限は長くもないが、その所在地は広く江戸の各地方に亙り、八十余ヶ所の多きに達してゐた。「かくれ里」(天保十五年版)の記事に依れば、寛政の改革に禁止された五十六ヶ所と天保に禁止された二十八ヶ所を合せて八十四ヶ所あつた。その中にも蒟蒻島、中州、入船町、横堀、井堀、六間堀、回向院、土手側、亀沢町、浅草広小路、駒形町、金龍寺前、万福寺門前、千駄木、丸山、市ヶ谷八幡前、青山、氷川、神明前、三田同朋町、高輪手町、常盤町、いろは、根津、深川等いづれも岡場所として知られたものである。
かく多数の岡場所の中にも最も全盛を極めたのは、俗に辰巳と称せられた深川であつた。沢川は元来天和の昔から既に私娼の巣窟地であつたが、寛延宝暦の頃、芳町、新道に住んでゐた踊子菊弥と云ふ才色兼備の女が深川に落ちてから、深川の遊里の勃興するやうになつたのであるが、併し安永の頃までもなほ娘風であつた踊子時代の遺風を存してゐたことは「客者評判記」の深川の条下に上々吉とあつて、「外にまた無き娘風、見るとぞつとする程命取り」とあるを見ても分る。此の深川の遊里が非常の繁盛を極めるやうになつたのは天明七年以来で、即ち吉川が全焼し、仮宅を深川新地、八幡前、中州、富岡町等に立てた処から、自然と深川へ江戸の市人を引きつけるやうになり、以前は娘風であつた芸者も、いつしか「羽織」と呼ばれるやうになった。しかし、「辰巳の園」(明和七年版)に、芸者をしらす時、「羽織にしましよう」と云ふ文句があるから、既に明和の頃から深川芸者の通名が羽織となってゐたことが分る。深川芸者は二枚証文と云つて、一は芸者商売の証文、一は売色商売の証文を親方に入れたものであるから、無論明かなる私娼で、深川土橋の茶屋では、羽織芸者を女郎芸者と呼んだ。
岡場所の売笑婦は種々であつて、芸者と娼婦とをつき交ぜたやうな者もあれば、今の東京の十二階下の私娼よりもなほ低劣な者もあつた。「西鶴置土産」に「清水町の隠しよね、百で酒肴もてなし」といひ、「吉原徒然草」に「手も足も太く、目つきしだるしうして、顔には白粉こてこて塗りつけた根津の茶屋もの」と云ふが如きは、無論下等の部類の私娼である。是等岡場所の私娼に対する幕府の処置は、検挙(当時之を「けいどう」と云つた)を行つて引捕へ吉原へ渡したものである。之を奴奉公といつた。初めは無期限であつたが、享保の頃から三年の期限に改めた。吉原の方では競争入札に附してその身価を定め、稼業中の疾病其の他の臨時の費用に給し、出廓の時の代金にする方法が立つてゐた。「江戸百化物」に、深川の芸者お六と云ふのが、二度までも検挙されて吉原へ交附されたことが記してある。
私娼を抱へた者に対しても、幕府は一定の刑罰を加へた。元禄十五年の規定に依れば、土地、家屋共に没収することになつてゐたが、延享元年に至つては五ヶ年内、家屋敷を取り上げて地代店賃を納めさせ、五ヶ年を経過すれば再び元の地主に返附することに改より、安永天明頃に及んでは更にそれを三年間に短縮した。それ故、私娼の抱へ主はその家屋敷を三年間取上げられても、其の間は地代店賃を上納するので、租税を出す心持となり、処分後も依然として私娼を蓄へ憚らず売笑させてゐた。若し元禄の規定をその後引続いて実行してゐたならば、安永天明時代に岡場所の大いに繁昌するやうなことは無かつたのである。要する幕吏が元禄の規定を改めたがため、私娼の抱へ主に対する制裁が却って黙認同様となって、私娼の横行を招致したのである。
天明の頃まで下等私娼の多かつた場所は、根津、谷中いろは茶屋、音羽、赤坂、氷川、市ヶ谷、麹町天神、下谷柳の稲荷、浅草朝鮮長家、赤羽根芝明神社内等であった。いろは茶屋とは五六軒の娼家で、一夜二朱で肉を売つた。根津なども七軒町から引手茶屋が軒を並べ、妓家櫛比して美をつくしたものもあつた。赤坂御門溜の池の端には「麦飯」と云ふ娼家があつて、表町裏町五六軒も並んでゐたが、もとは麦飯を商ふ店であったのを、吉原の遊女を米(よね)と見立て、それより賤しいと云ふ意味で麦飯と名づけたのである。芝の三田には三角とて五六軒の娼家、切見世があつた。深川八幡前の向ひなる佃町、松岡町代地には一般に「あひる」と云つて、河岸通り裏町とも娼家軒を並べ、私娼の衣服はさらさ木綿に太織の緋がのこと、少し肩入れて裾まはしは黒木綿を用ひみにくい姿であつた。その価、昼は六百文、夜は四百文だから、洒落て四六見世と云つた。また岡場所の切見世の私娼は「鉄砲」と云つたが、それは房事一回なるが故に、一つ放しにゆくとの意味で斯く名づけたものらしい。「鉄砲の疵年をへて鼻へぬけ」「いゝ玉で鉄砲見世はドンと当て」と云ふやうな川柳もある。