延宝、天和、貞享の頃には、大阪京都に蓮葉女といふ私娼があつた。それは大問屋なる商家に抱へ置いて旅人の枕席に侍せしめたものである。「好色一代女」にこの私娼のことを記して、「上問屋下問屋、数を知らず、客馳走のため、蓮葉女といふ者を拵へ置きぬ。これは飯炊女のみよげなるが、下に薄綿の小袖上に紺染の無紋に黒き大幅帯、赤前だれ、吹鬢の京かうがい、伽羅の油にかためて、細緒の雪踏、のべの鼻紙をみせかけ、その身持それとは隠れなく、随分面の皮厚くて人中を畏れず、尻すゑてのちよこちよこ歩き、びらしやらする故に此の名をつけぬ。物の宜しからぬを蓮の葉物といふ心なり」とある。そして蓮葉女といふ名称の由来については、西沢一鳳の「皇都午睡」に「竹の皮なき出舎にては、諸品を蓮の葉にて包み、藁にてくゝる。下品なるを云ふなり」とあるに徴しても知られる。彼等の如何に下品にして且つ摺れからしの女であつたかは「好色一代男」に「あれは問屋方に蓮葉と申して、眉目大形なるを、東西両国の客の寝所さすため抱へて、おのが心まかせの男狂ひ、小宿を替へて逢ふこと、いたづらに昼夜に限らず。出あるくことも親方の手前を恥ぢず。妊めば苦もなくおろす。衣類は人に貰ひ、はした金もあるにまかせて手にもたず、正月着物は夏秋を知らず売りて、そばきり酒にかへ、三人寄れば大笑ひして、高麗橋を渡ることを忘れ、仏神に詣でけるにも、置綿ばら緒の雪蹈の音たかく、道すがらの一口咄にも人の耳をこすりて」とあるを見てもその一斑を知り得られる。右の文中「高麗橋を渡ることを忘れ」とある一旬は、当時大阪の釣鐘町 あたりに問屋が多く、之に抱へられた蓮葉女の船場辺に遊びに行つて、抱へ主の家に帰ることを忘れたことを云つたのである。
蓮葉女はその始めは大阪の問屋にのみあつたが、次いで京都及び北陸辺の問屋にも之を置くこととなつた。「日本新永代蔵」越前の大問屋弥三右衛門の条下に、「京がゝりの伊達女を二十人抱へて、之に朝夕の給仕をさせ、寝間をとらせ云々」と記し、また「日本永代蔵」に北国阪田町の鎧屋といふ大問屋のことを記した中に、「都には蓮葉女と云ふを、所の言葉にて杓といへる女三十六七人、下に絹物、上に木綿の立島を着て云々」とある。
軽佻浮薄の女のことを蓮葉者、蓮葉娘と呼ぶは、蓮葉女から出た言葉で、「世事百談」にも「女子のおとなしからぬを蓮葉ものと云へるは、蓮葉女より出でたる諺なり。立居振舞ひ賤しく恥しげなき女を蓮葉女の如くと云ふ心ばへにて蓮葉者と今も云ふことなり」とある。