天明の頃には江戸に「けころ」といふ一種の私娼があつた。「蜘蛛の糸巻」に 「浅草、両国、橋町、石町辺にてころび芸者と唱へ、百疋づゝにて転び寝の枕席したるものありし故、此の名あり。けころの名は蹴転ばしの義なり云々。泊りは客より酒食をまかなひ。夜四つより二朱なり。一軒に二三人づゝ昼夜見世を張り、衣服は縮緬を禁じ、前だれにて必ず半畳の上に座すなり。此の売色大方仏店より軒をならべて四五十軒許り在りつらん」と云ひ、また「塵塚談」にも「けころと云ふ妓女のこと、天明の末まで、下谷広小路、同御数寄屋町、同提灯店、同仏店、広小路前通り、浅草堀、田原辺、其の他諸所にあり。これも一間の家に二三人づゝ限りに出で居ることなり。花費は二百文づゝにて、いづれも容貌を選び出したり。毎月大師の縁日、三日、十八日には未明より出居あきなひせしなり」とある。
「けころ」は前垂れ姿であつたから、上野山下の「けころ」には、山下の前垂れといふ異名があつた。此の私娼は寛政以後に至つて全くその影を絶つた。されば弘化年代刊行の「蜘蛛の糸巻」にも「けころの姿、絵にも団扇にも売り出したるを、余一柄を蔵す。今は珍奇なり」と記してある。