今でも同じことであるが、料理屋は私娼の跋扈する所で、天保及び文久年度の頃には之に対して厳令を発した位である。抑々天和年代の頃までは、江戸市内には飯を売り酒を出す茶屋といふものは無かつたのであるが、天和頃になつて、浅草並木に奈良茶飯の店といふのが出来たので、珍奇を好む京人はこの茶飯喰はんとて押し寄せた。これが料理屋の権興であらう。都下の繁昌につれて追々飲食店の多くなりゆく中にも、明和の頃、深川洲崎に升屋祝阿弥といふ料理屋が出来て、貴公子や通人の愛顧を受け、享和の頃には浅草の三谷橋の向ひに八百善、文化の頃には深川土橋に平清、大音寺前に田川屋といふ料理屋も出来、その他いろいろの小料理屋飲食店も彼所此所に出来たが、是等の料理茶屋は勿論、既に遠くからあつた水茶屋にも、酌取女、茶汲女を置いて客人の枕席に侍らせた。天保十三年の布令に、「端々料理茶屋、水茶屋渡世致し候者の内に酌取女、茶汲女等年古く抱置候者共、近年猥りに相成候趣相聞候云々」と見え降つて文久元年の布令にも「市中料理茶屋等に若き女を抱へ置き、身なりを粧ひ客の給仕又は酒の相手に差出し、不取締の儀も有之哉に相聞え、不埒のことに候。向後料理茶屋共、その働き一通り抱置候水仕女の他、衣類髪飾等粧ひ候女子共召抱へ置き、客の給仕など差出し候儀堅く相成らず」とある。
茶汲女は古く貞享の頃からあつたもので、同時代版の「好色旅日記」にも、京都の祗園町に「茶汲女」といふ売笑婦のあつたことを記してある。茶見世にあつて、客が床几にかけると、前垂れがけで出で来り茶を持ち出る女である。