十二 船饅頭、ぴんしよ

船饅頭とは元来泊船に饅頭を売るといふ名目で売笑したから超つた名称であることは、「守貞漫稿」に記する処であるが、併し船で売る肉饅頭といふ意義か も知れない。既に万治の頃からあつたものらしく、「洞房語園」に「往にし万治 の頃か、一人の饅頭どらを打つて深川辺に落魂して船売女になじみ、己が名題を許しけり」とある。天明の末頃までは江戸は大川中州の脇、永久橋辺に小船をつけて岸に寄せ、行人の袖を引き、客来る時は船を漕ぎ出して中州を一巡りするを、売笑の時間としたと「寛天見聞記」にある。「守貞漫稿」に之を記して「夜嵐よりも美にして衣服なども宜しく、化粧も本式に粧ひ、昼見ても恥ぢざる風姿なり」とある。その代金は「蜘蛛の糸巻」に依るに、百文、下なるは五十文とあつた。寛政の頃から一時廃絶し、嘉永に至つて再興したが、その末には全く無くなつてしまつた。「嬉遊笑寛」に天明七年蜀山人の作なる永久夜泊の詩、「鼻落声鳴蓬掩身、饅頭下戸抜二銭婚一、味噌田楽寒冷酒、夜半小船酔二客人一」の狂詩を挙げてある。

びんしよは大阪にあつた船饅頭同様の私娼で、「筆拍子」に「安治川口、木津川口の大船へ、伽やらうと言つて、三味線ひいて女を小船に乗せゆく」とあるが、船人を常客とし、米一升で肉を売つたので、博徒の方言に一をぴんと云ふ処から、ぴん升と称せられるに至つたものらしい。身には綿服を着て白粉を粧ひ、三味線も弾いたと云ふ。