十三 飯盛、宿場女郎

江戸時代には駅里を宿といひ、宿の旅屋に旅人の食事の給仕をする下女で淫を売る者を飯盛と云つた。但しこのやうな売女を置かずたゞ旅人の宿のみをするものは、平旅籠屋と云つて其の間に区別をつけた。飯盛には出女、おじやれ足洗女等の異名がある。

各道中の駅里にある遊女を宿場女郎と云つた。江戸では品川、新宿、千住、板橋を四宿と称した。東海道五十三駅で公許の妓楼のあつたのは、ただ駿府の弥勒町のみで、その他の宿駅にある売笑婦は妓楼内で淫を売つたもので、その境遇は公娼と異つた処は無い。これが即ち俗に宿場女郎と称せられたもので、神奈川、吉田、岡崎のやうな駅里の宿場女郎は他のものに比してその品位が優つてゐた。

宿場女郎は私娼であるが、併し幕府は飯盛女と云ふ名目で之を黙認した。しかし、之に対してはその地区を制限し、また女郎の数をも限定した。蓋し駅里に遊女のあることは夙に平安時代からの風習であつて、之を禁止することの不可能なる所以を是認せられたが為めである。されば享保七年には品川の旅籠屋九十四軒に飯盛女五百人を置くを許し、寛暦十四年には更に品川に五百人、千住、板橋各百五十人、明和九年には内藤新宿に百五十人の飯盛を許した。是等四宿とも売笑婦として許したもので無く、飯盛女として許したのであつたが、併しその実は売笑を本業とするものであつたから、前記の如く営業者と娼婦との数は厳に限定されたのである。但し東海道五十三駅の中、宿場女郎の無かつたのは草津、石部、水口、土山、阪下であつた。(これは天保の頃である。)