夜鷹と云ふのは昔の歌にある辻君や夜発の名残であるが、「かたひさし」にはこの名義に就いて「夜鷹といへる賤しき遊女を夜鷹と云ふのは、さることなり。和名類聚抄に、惟鴟、與多加、昼夜伏行、嗚以為惟者也とあり、一名隻狐と云ふ。不詳の怪鳥なり。さてまた同抄に、昼遊行、謂之遊女、待夜而発、其淫奔者、謂之夜発云々、今井良が荏原郡戸越村に住ひける頃、語りけらく、たをがれの頃、木立の繁みより立ち出づる鳥あり、道路にのけさまに伏しゐけるを、人行きかゝりぬれば、立ちて二三丈も置きてまた始めの如く伏すとなん。形は夕暮なれば定かに見えねど、ふくろ、みゝづくにあらんと思ふやうなりと語れり。これ鷹なるべし、道路に伏す故、夜鷹と名づけしにやあらん」と記してある。
江戸では本所吉田町、四谷鮫ヶ橋などから多く出でたもので、川柳にも「はな散る里は吉田鮫ヶ橋」といへるやうな句がある。「はなが散る」とは夜鷹に戯れて黴毒に伝染することを云つたものである。「俗枕草紙」に「鮫ヶ橋、総じて関東夜鷹の根元、瘡毒の本寺は是や此の里になん待る」とある。
「守貞漫稿」に依れば、江戸の夜鷹は各所に夜のみ用ひる小屋を組んで敷戸を開き、毎戸草莚をたれ、戸口に立つて客を呼んだといひ、年は大抵十五六から四十歳以上の者もあり、綿服綿帯で顔のみ白粉をつけ頸は白粉を粧はず、京阪でも同じことで、黄昏より三更ばかりを限りとすとある。「都の手振り」にも夜鷹の有様を優雅の美文で記してあるから筆の序に抄出して見よう。
日入る頃より装ひこちたく物して、かしこへと急ぐ。昔は木綿の黒きを衣とし、白きを帯となして、頭をば手拭に包みて出でたちしを、今様はさるまねびをせず、常ざまの市人の妻の如く見まがへありき、若きは稀にて、四十より五六十許りの古き女ぞ多かる。瑞歯ぐむまで老いにける身を引きかくさんとにや額髪の抜け落ちたるをば墨をもて染めかくし、白き髪をば黒き油したゝかにして塗りかくしつ。されど、これも隠しおほせで白きが班にまじりて出たる、見苦しう穢げなり。暮れはてぬれば、例の所に立ちて行きかふ人を呼ぶめり。つれなく過ぎゆく人もあり、また近く寄り来て、ひたひたと顔を守り見るもあり。(中略)臥床と見えし所は、こもすだれ掛けたれば夕月夜の定かならぬにはあらはにしも見えず、さるは秋ならずとも、露げからましとおぼゆ。
京阪地方に於ては夜鷹を総嫁と云つた。江戸時代の流行唄に「京は辻君、大阪では総嫁、江戸の夜鷹は吉田町」とあれども、京阪共に辻君とは云はず総嫁と称した。「好色節用集」に之を記して、「浜納屋の前、野はづれ、河原等を揚屋として客を受け、(中略)紺の布子にねずみ帯、顔白々と塗り云々」とあり、「守貞漫稿」には「京は鴨川橋辺の川原に小屋を作りて莚をしき、戸口に立つて客を待つ。大阪は小屋を製せず、諸川岸土蔵の間、或は材木の間に佇みて客を待つ。敷物は草莚を用ひ、また外見を覆ふには、草莚に竹を挟みて二枚屏風したるを用ひ、また雨傘を用ふ」とある。
元禄の頃、江戸京阪共に最下等の夜鷹総嫁を「十文」と云つた。「好色一代男」に、「上中下なしに十文に極め」と見え、「忠臣講釈」にも「顔はことさら十文の、総嫁に惜しき容色なり」とある。十文とは銭十文で淫を売つたから附けた名称で、明治二三十年頃にも大阪では最下等の総嫁を「十銭」と呼んだ。