江戸時代は政網大いに張り文物隆盛の大観を呈したことは史上明かなる事実であるが、併し慶元以来の太平は社会腐敗の原因となり、年を遂うて人心柔懦遊逸に流れ、殊に元禄、安永天明、文化文政時代は、淫靡驕奢の風上下の人心を侵し、風紀の甚だしく頽廃した時代であつた。されば売笑の風の盛んなこともまた驚くべきもので、公認遊廓たる吉原のみでも、遊女の数は元禄には千九百人、天明六年には二千二百七十人、安政五年はに三千八百七十五人に及び、私娼の数も天保の頃には江戸市内で四千百八十一人に達し、天保改革の際、吉原に移つた私娼の数は二千百六十五人と註せられた。此の如き有様なるが上にも、当時は検黴制度が実施せられず、全然衛生的管理を加へなかつたから、性病の如何に劇しく蔓延したかは今日よりも能く想像することが出来る。「黴瘡約言」に「吾邦昇平二百年干戈不動、鼓不動、人民観喜之極、或流遊惰、七情妄勤、五慾肆発、男女猥狎之感最甚、而淫火相搏、湿点互染、徴証亦於是生」と明記したのは、実にその真相を道破したものである。
されば幕府の当局者が、社会風紀の堕落を匡救せんがために種々苦心したことは史上顕著なる事実で、一面には公娼を認可して之に風紀的管理を施すと共に、一面には私娼の勦滅に努め、歴代種々の禁令や覚書等を発布したが、併しいづれも一時多少の効を奏した許りで、いつの間にか禁令再び弛み、永久の効果を収めることが出来ずして遂に明治時代に入つた。
私娼に対する禁令は既に承応二年の頃から発布せられ、「ばいた女抱へ置き、あるかせ申間敷候。若し隠置候者有之候はゞ、其者急度曲事に可申付候。家主儀も詮索の上、急度可申付候事」とあつて、高圧的に私娼撲滅の手段を執り、明暦三年には風呂屋女を禁じ、「自今以後、風呂屋へ遊女隠し置き候はゞ、五人組は不及申、詮議致し、若し唯今迄隠置候遊女有之候はゞ、早々払ひ可申候。少しも相背き申間敷候事」と発布し、更に寛文四年に至つては、「新吉原の他、町中に遊女隠し置く者之有らば、両町奉行所へ掛け入るべし」と達して、私娼を抱へるものを告訴せしめ、また同六年には、私娼を隠し置く者に対しては、「家屋敷取上げ、江戸追放被仰付候」と厳達した。是等の禁令の中、風呂屋女の勦滅は、之を吉原遊廓へ転ぜしめたことによつて効を奏したが、他の禁令は悉く無効に帰し、依然として私娼の流行し風紀を乱すがため、幕府も之に願みて手加減を寛にするの要を感じたと見え、寛文十年には「今度遊女の穿鑿を遂げ候間、町中に抱へ置候はゞ召し連れ可罷出候。左候はゞ科を免じ、遊女ばかりを取上げ、新吉原へ可遣候。若し隠し置く者あるに於ては、其者は申すに及ばず、家主五人組まで急度曲事可申付候間、一町として念を入れ相攻むべきもの也」と達した。
しかし、此の如き布令も効果が無いので、元禄十二年には茶屋に遊女を置くを禁じ、十三年には遊女がましい者を置く者は、持主、家主、五人組まで曲事たることを布達し、十四年には「ばいた女、遊女の類有之様相聞候間、与力同心差出し之を捕へ、当人は申すに及ばず、家主共曲事可申附候間、名主五人組立合ひ、油断なく可申付事」と令し、十五年及び十六年にも之に類する布令を出したを見ても、私娼撲滅の容易でなかつたことが判る。それから宝永三年には、踊子の師匠、比久尼の中宿及びばいた女を禁ずべく、左の如き令達を出した。
一、町々に於て、踊子師匠致候者、今度停止させ候間、その旨を存じ、踊子の指南致候もの、男女に限らず、向後町中に差置間敷事。
一、比久尼の中宿致し、大勢人集りなど仕候者、所々に数多有之由、これまた停止候間、自今以後比久尼宿堅く仕間敷事。
一、遊女ばいた差置き間敷旨、前々相触候所、此頃はばいたあるき候由相聞不屈にて候。彌以て堅く可相守事。
右の趣、町中家持並借家裏々の者まで急度可触知候。此方より人を廻し、左様の族有之らば、見及び聞き及び次第可召捕候間、若し相背くもの之有るに於ては早々可申出、隠置き他より露顕するに於ては当人は不及申、家主五人組、名主まで可曲事者也。
此の如き布令は向背相望んで踵出したけれども、実際上目立つた効もなく、蒼蝿を払はんとすると同じやうに、一時だけは私娼を禁じられても、時日を経れば再び現はれるので、正徳元年には吉原大門口に左の如き高札を立てた。
前々より制禁の如く、江戸端々に至る迄、遊女の類隠し置くべからず。若し違犯の輩あらば其所の名主五人組地主まで曲事たるべきものなり。
しかもこれまた空文に帰し、私娼は毫もその影を絶つことなく、年を遂うて益々跋扈するやうになつたので、享保七年に至つて、断乎として厳重なる方針を執り、私娼を置き抱へた者は之を捕縛して其の家財及び屋敷を没収し、私娼はその家財を没収した上、百ヶ日の手錠となし、更にその状の重き者に対しては、吟味の上、流罪死罪に処すべきことを公布した。その文左の如し。
町中に於て隠遊女御停止の旨、前々よりも相触候所、今以て相止まず、不屈至極に候。自今召捕候て左の通り申付可有之候。
一、隠遊女商売致候者、店に差置候はゞ、其屋敷並家財家屋共に公儀へ取上 可申候。但し遊女商売いたし候本人は、家財不残取上げ、百ヶ日の手錠にて所に預け置き、隔日封印致す。
一、地主、其外に罷在、家主ばかり差置候共右同断、但し家守りの家財不残取上げ百日の手錠にて所預け置き隔日の封印致す。
右今日より三十日過ぎ候はゞ、役人並吉原町の者相廻し、遊女商売致候者相改、召捕候て右の通り可申付候。然共其趣の品により吟味の上、遊女持候当人は死罪流罪にも申付、家主五人組はこれまた其趣の品により右に準じ重く申付くるにて可有之候間、其旨心得、町中可触知者也。
上記の如き享保の厳令も其の結果は永遠の効なく、元文頃から再び江戸の風紀弛廃し、宝暦から安永天明時代に至つて上下共に腐敗堕落し、売笑婦の横行実に甚だしく、淫蕩の風靡然として行はれたがため、遂に寛政の改革となつて一挙に私娼を勦絶すべく断乎たる処分に出でたものの、これまた一時の効があつた許りで、文化文政の奢侈遊逸時代に入ってからは、之に伴うて私娼も踵出し、普通の手段では到底之を一掃することの不可能なるを痛感した結果、天保十二三年に至つて、当時の閣老水野忠邦は突然峻厳なる革新を企て、疾風迅雷の如き勢を以て、先づ天保十二年の十月には猥りに奢侈の物品を売買するを禁じ、十一月には遊芸の興行を禁じ、十二月には女髪結を禁じ、十三年六月には錦絵、俳優、遊女、芸者の似顔の一枚摺及び一説類を禁じたが、売笑婦に対しては、先づ天保十二年の十二月に於て娘普太夫を禁じ、翌年十一月二十七日には九人、二十八日には三十一人の娘義太夫を捕へた。芸者に対しては、之より先天保九年十二月、美服の着用を禁じ、また女を抱へて芸者に出だすを禁じて消極的手段の下に芸者を減少する方針を執ったが、しかし何等の効果もないので、遂に天保十三年に至り、水野閣老は之に一大打撃を加へて一時屏息せしむるに至らしめた。天保十三年三月十四日、浅草堂前で私娼を召し捕へてから、同十八日には岡場所を同月八月迄に取払ひ、吉原遊廓に移転すべき旨を厳達した。「寛天見聞記」に当時の有様を記して、「されば、右に挙げたる江戸中の娼家二十七ヶ所、野郎屋四ヶ所、他、駅馬の娼家五ヶ所、品川、新宿、小塚原、千住橋あり、吉原を加へて四十ヶ所に及ぶべし。かくの如く悪行の者共まさりて風俗を乱し倫常を破ること少からずとて、此度の公会によりて、吉原と駅馬との他は、娼家は悉く取払はれて俄かに家業を改めて商人になるものあり、家を移して他郷に走るものあり。さしもに建て連ねたる高楼壮閣一時に取払はれて 荒原とぞなりにける」とある。此の如く天保の大改革が一挙に私娼の巣窟地全体を掃蕩したのは、実に元和三年規定の公認遊廓制度の精神を再び実現したものである。しかし、之より遥か以前から黙認された品川、新宿、千住、板橋の四宿を公認遊廓たる吉原と共に残存せしめたことは、徹底的に私娼を掃蕩したとは云はれない。しかし、兎に角江戸市内に散在した岡場所の私娼及び芸者を悉く禁止した天保の大改革もまたその効果を永く保つことが出来なかつた。それは水野閣老の英断が余りに極端であつて一般社会の反感を買ひ、遂に辞職するの已むを得ざるに至り、その後任者が之に鑑みて風紀取締の手加減を寛大にしたことや、嘉永以来外国と頻繁なる交沙が起つてからは、私娼取締の沙汰どころで無く、外患内憂に悩まされたこと等のため、いつの間にか種々の私娼が再び現出して次第に増加し、天保の大改革も結局は失敗に終つてしまつたのである。
徳川幕府が元和三年、吉原遊廓を公認すると共に、私娼の撲滅を既定の政策としたことは、要するに都下に於ける風俗の腐敗を防止し、社会の風紀を維持するがためであつた。それ故、公娼を許しても一廓のみに限定し、それが新吉原となつた後でも、その一方口を閉鎖して決して開放せしめなかつた。そして封鎖した遊廓内では、娼家の自泊に任せて之に干渉せず、たとひ公娼が盛装して男舞を演じ、或は道中行列をして人気を引き附けることがあつても之を不問に附した。男舞興行の広告に建札をするのさへ、大目に見遁して之を禁じなかつた。そして私娼の告発権を吉原の娼家に与へた等、公娼の認可によつて私娼を掃蕩するのを目的とした。此の如き売笑政策を執つた幕府はその倒壊する幕末に至る迄、吉原の大門口に建てた高札に記した「傾城町の外、傾城商売致すべからず」との法令を変更しなかつた。然るに品川、新宿、千住、板橋の四宿の遊女だけには黙認の形式の下に売笑を許し、また江戸の出入口に当つて旅人の往還する東海道、東山道、甲州道中等の駅里には所謂飯盛女なる私娼を公認したのは、他に種々なる私娼の踵出を憂慮したからである。享保には品川、宝暦には板橋、千住、明和には新宿の遊里を黙認した。是等の四宿は江戸に接近した地域であつたので、公認遊廓の吉原以外に之を黙認したのも、売笑政策上已むを得ざる処であつた。それ故、四宿の娼家と売笑婦との数は厳に限定された。
幕府が私娼処分に一新例を出したのは寛文三年で、即ちその検挙した私娼を吉原へ交附することにしたことである。それは同年十一月、町奉行が吉原からの告白によつて築路の茶屋女を捕へ、その女共を吉原に渡したのが最初で、翌年五月にも之を実行した。その度毎に茶屋女の抱主はその前貸金を損失することになるが為め、遂に芝本庄、築路、高輪の茶屋五十余人は抱への私娼五百余人を率ゐて、吉原移住を交渉するに至つた。
元禄年度に私娼及びその抱主を罰するの他、その家屋を没収し、名主、家主五人組まで処罰すると云ふ前記の布令は多少著しい効果があつたらしい。地上の売笑稼業が困難となつたので水面に移動するに至つたのが、享保の頃から現はれた船饅頭であつた。それ故享保には私娼の大検挙は無く、僅かに船饅頭及びその抱主を検挙して之を処分した位であつた。そして其の検挙された女は例の如く吉原に渡された。但し享保前までは吉原へ交附された私娼の勤め年限は無期限であつたが、此の頃から三年に改定された。
然るに延享年代に至つて元禄の土地家屋没収の布令を変更して、その取上げ期限を五年間となし、安永の頃に至つて更にそれを三ヶ年間に短縮し、その間は地代店賃に相当する金額を上納せしめるやうになつたがため、私娼の抱へ主は租税を出すのと同様に心得て、処分後も依然として私娼を置き憚らず売笑させた。是れ実に安永天明時代に私娼の横行し、岡場所の繁昌するに至つた所以である。されば寛政の頃には江戸市中に五十余の私娼地区もあつた位で、それを寛政七年に松平定信が厳禁し、私娼を吉原に交附した。その際、三年の満期後、若し引取人のない場合に片附ける費用、期間の事故病気等の費用として冥加入札をなさしめ、その入札金を積金にして置くことに規定せしめた。天保十三年の改革の際にも同様に入札せしめた。
以上説くが如く、幕府は吉原の公認遊廓、及び黙認した四宿の娼家以外に、売笑の業を営む者を凡て私娼として禁止掃蕩する政策を執り、寛文の頃からは検挙した私娼を吉原へ引渡し、元禄年代には抱へ主を始め営業場を提供した家主、名主をも厳刑に処し、宝永三年には踊子、その師匠及び比丘尼の中宿を禁じ、正徳元年に辻々に集まる売女を召し捕るべき旨を厳達する等、高圧的手段を以て私娼の掃蕩に努めた。その効果は固より予期の如くには行かなかつたけれども、併し、是等の禁令の励行せられた間は、私娼及び抱主が如何に其の筋の眼を晦まさうと思つても、如何せん営業所を得られないから、踊子の媒合を専らにする踊の師匠、比丘尼の中宿などは一定の営業所を有たれないことゝなり、その為め私娼の中には地上から水面に移つて船饅頭となつた者もあつた。処が、前記の如く延享年代に至つて、家屋敷の取上を五ヶ年間に改め、安永になつてそれを三ヶ年に短縮し、その間は地代店賃を上納させて、売笑稼業を黙認するに等しい怠慢の処置を取るに至つたがため、私娼及びその抱へ主は再び営業地を固有し得られて、茲に四場所の大繁昌となり、安永天明の堕落時代を現出したのであつた。その後、寛政の改革となつて、岡場所を禁止し私娼を掃蕩したけれども、これは一時的で文化文政の所謂大御所時代に入り、驕奢淫蕩の風再び盛んとなつてからは、売笑政策も厳行されず、私娼は到る所に流行したがため、遂に天保の改革となつてまたもや禁止の憂目に遭つたものゝ、併しその禁令も早晩弛廃して、私娼は更に現出増殖し嘉永以来は内憂外患交々起つて風紀の取締も殆ど閑却せられる如き状態となり、私娼は愈々時を得て世に濶歩するに至つたのは、また是非もない次第である。