江戸時代の中世以後にも一般の婦人は自ら頭髪を結ぶ風習になつてゐたが、明和七年の頃より大阪に女髪結が出来るやうになり、それが江戸に伝つたのは天明時代で、寛政の初め頃には既に多くの女髪結を生じたけれども、それに髪を結はするものは主に花柳界の女性であつて、良家の婦人には猶ほ及ばなかった。
処が茲に興味のあるのは、江戸に於ける女髪結の開祖が同性愛を好む女性的男子であつたことである。岩瀬京山の「蜘蛛の絲巻」に曰く。
安永の末、山下金作といふ女形、江戸に下り、深川の栄木といふ処に住む。此者の鬘つけ(かつらの髪結)仲町の妓に通じたりしに、ある日、此妓の髪を金作が鬘のやうに結ひけるを、妓輩うらやみ、謝物を多く贈りて結はせけるに、後は一度を二百銭と定めけるに、結はするもの多ければ、鬘附けを止めて妓の髪を結ぶを渡世としけり。甚吉といふ若き男、弟子となり、一度を百づゝにて妓家の仲居共の髪まで結ひけるに、百づゝ故、百さんさんと呼ばれ、遂には名となりけり。この百は挙動、音声天然婦女子の如く、男に情を許すを好みしとぞ、されば女の業なる女の髪を結ぶことも習ひしならん。此者後には八町堀大井戸といふ処に住み、芸者共或は囲ひ者のなど結あるき、女の弟子ありて、弟子に髪をすかせるその跡へまはりて結ぶ、うかれ地女など結ばすれば、茶屋ものなり、驕りものなりとて他に譏らるゝ故、この悪俗風、他の女には移らざりけり。こは寛政二三年の頃なり。是れ女に髪結といふ悪風の起りたる起源なりけり。この後、百の弟子の玄孫弟子、或は自立の者も多く出来る故、起立の百をくづして、五十となり、三十二文、又は二十四文の安売もあつて、女髪結、千筋に別れ、招くものも櫛の歯をひくが如くなれば、今三十代の市中の婦女は髪結ふすべを知らざるに至る。是れ他なし、百が妖風の毒を残してなり云々。
是に依て之を見ると、百といへる渾名を得た甚吉と云ふ女性的男子が、江戸に於ける髪結の開祖たることが判かる。同性に愛情を許すを好む女性的男子は啻にその身体の輪廓が女性的なる許りでなく、この感情も思想も女性的であり隨つて女性の職業を好む傾向がある。江戸に於ける女髪結の開祖が此の如き変態男子であつたことは誠に興味がある。