無智なる俗民の治病祈願の対象となつてゐる神さまの中には、その本来の性質を取り違へた滑稽突梯なるものが尠く無い。播州明石に祀られてある人麿神社は歌聖柿本人麿を祭る社であるのに、「ひとまろ」が「ひとうまる」(人生る)と 転訛して、妊娠、安産を祈る神さまとなり、また「ひとまる」(火止る)と転訛 して火防の神となったことは周知の事実であるが、これと同様に発音の同一或 は類似せる処から、方角違ひの神さまを療病神として祈願をかくる俗民の今に 至るも猶は絶えないのは、実に抱腹に堪へない。大阪市内に服部の天神といふ 神社があつて、その神体の画像であるが故に、初めは描き絵の天神と称せられ てゐたのが、「かきゑ」が「かつけ」と転じて、脚気に霊験のある神さまのやう に信ぜられ、之に治病を祈る者の多くなつてきたので、今では脚気の神さまの如くになつて了つた。また同じく大阪の今宮の恵比須神社の傍にある広田神社は元来地主の神であるので、地の神と称へてゐたが、いつしか痔の神となつて肛門病患者の祈願をかくる神社となり、また石神が百日咳の神となつた如き、關の姥神が百日咳の神となつて呼吸器病に霊験のある神と誤認せられるやうになつたが如きも同じく此の類である。
私が茲に聊か詳しく述べてみようと思ふのは、古来黴毒の神さまとして信仰されてゐる瘡守稲荷である。これは笠森稲荷の転訛名であつて、その本社は、「摂津名所図会」に依るに摂津の島上郡(今日の三島郡)真上村にある。神社のある森の形の笠の形に類似してゐるので、笠森稲荷と云つたのが、「かさ」が瘡の古語たる「かさ」と同音であり、森の「もり」が守の「もり」と同音であるので瘡守と変化して了つた。しかし、古語の「かさ」は皮膚発疹の総称であつて、これが黴毒のみの名称となつたのは本病の吾国に輸入された足利時代末葉以来のことである。「和名抄」に「瘡、名和、加差」と云ひ、「万葉集」中、山上憶良の沈痾自哀文に「痛レ瘡灌レ塩」とあり、「続古事談」に「後朱雀院、かさを病み玉ひけるに」とあるを見ても、瘡を「かさ」と称することは我国の古語である。されば、笠森稲荷が瘡守稲荷と転訛された以後に於ても発疹、腫物の神として崇拝されてゐたので、それが黴毒の神さまとなつたのは、江戸時代の元禄頃から性病の甚しく蔓延して、黴毒を「かさ」と云ふやうになつてから後のことであらう。
足利時代の末葉なる天正時代の頃までも、瘡守稲荷は猶は発疹腫物の神として崇拝されてゐた。「笠森稲荷縁起」に依るに天正十二年、長久手の戦役の時、徳川家康が腫物を患ひてゐたので、その臣下の倉智甚左衛門が笠森稲荷に祈願した処が、震験があつたので、その後家康に隨つて江戸に移つた甚左衛門は谷中感応寺の西の方の処へ笠森稲荷を勧請したのである。それが感応寺の境内に移つたのは享保の頃であつた。処がその後、大前孫兵衛といへるものも、同じく摂津に本社のある笠森稲荷をば白山御殿跡にあつた自邸内に勧請して病を祈つた処から、参詣するものが多くなり大に流行するやうになつた。それは「続下手談義」に依るに宝暦以後の初からで、此の時の前後より全く黴毒の神さまとなつて了つたのである。そこで、孫兵衛は他聞を憚り享和の頃自分の善提所なる谷中の大円寺の境内に移した。かくして黴毒の神さまたる瘡守稲荷は感応寺にあるものと、大円寺にある者との二社に分れ、相互ひに競争するもの余り瘡守といふ名称の「ブリオリテート」をも争うて、寺社奉行に訴訟に及んだことさへあつた。
摂津三島郡清水村、大字、真上に本社のある笠森稲荷も性病の神さまとなつて、今日では旧暦七月に祭礼が行はれる。啻に性病に効験ある許りでなく、懐妊の祈願にも効があるといはれ、子供を得たい女は祭礼日の夜、川原で腰をまくつて坐つて居れぼ妊娠すると云ふので、女が沢山参詣する。
京都四条切門の西に「延喜式」に見ゆる隼神社といふのがあるが、世人は「はやふさ」を「はやかさ」(早瘡)と転訛し、瘡疾及び性病の神さまとなつたのも 前記の笠森稲荷が瘡守稲荷となつたのと同じである。ちよつと茲に附記したいことは、笠森稲荷でも、隼神社でも、土で作つて団子を供へて瘡毒の平癒を祈願する風習の昔にあつたことである。これは恐くは最初土を局部に塗布して発疹腫物に多少の効験のあつた処から起つた儀式であるらしく思はれる。土に消炎作用のあるか否かは固より判らないが、角力取り仲間には古来「土俵の上の傷は膿まない」と言ひ伝へられ、後等は土俵の上では幾ら皮膚を擦り剥いても何等の手当もせず、却つて土砂を負傷部へ擦りつけて置いても、それがため嘗て化膿した例は無いといふことである。畏友別所彰善氏は蝮蛇咬傷の患者が、その患足を土中に浸入して局所の腫眼の著るしく減少し分泌物も減退し、全身の苦痛も余程軽快した実例を記述してゐる(精常活養篇中巻一)。此の如き事実に徴すれば、土の塗布及び塗擦が、発疹、その他の皮膚炎症にも多少の効験のあるべきことを想定することが出来よう。されば笠森稲荷に土で作つた団子を供へて瘡疾の治癒を祈つた風習も蓋し民俗問の経験より出でしことに相違ない。
それから猶ほ一言したいのは、天神さまが花柳界に信仰されて居ることである。それは、太夫に次ぐ高級の娼婦を天神と呼ぶ処から起つたことらしい。宝暦版の「浪花青楼誌」に、大阪新町にても女郎を天神と云ふことあり、「異本洞房語園」に「勤め銀二十五匁なれば、北野の天神の縁日に取つて天神と呼ぶ」とある。しかし、私の観る処を以てすれば、天神さまの花柳界に信仰のあるのは此の如き名称上の因縁に基づく許りでなく、天神さまを黴毒の神と誤認せることもその一原因であるまいか。それは菅公の詠まれた有名の和歌に「こち吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじ無しとて春を忘るな」とあるが如く、梅樹を愛せられたのであるが、黴毒を梅毒とも書く処から、天神社の狡獪なる神官共が、梅毒にも霊験あると吹聴し、天神さまを性病の神にもして了つたことも花柳界に信仰ある所以の一で無からうかと思はれる