異性の身体を彫刻した立像に恋着心を抱いて、之を汚涜する一穐の変態性慾即ちピグマリオニスムス Pigmalionismus に類似したものとして茲に挙ぐべきは、絵像恋愛であつて、私は之に絵像性フヱチスムス(Gemaldefetischismus)といふ名称を与へたい。此の種の変態性慾に関する欧州の文献はまだ十分に調査しないが、我国の文献には之に関する挿話や小説を看出すことが稀でないから茲にその二三を挙げて見る。
「古今集」の序に、遍照僧正の和歌を評して、「歌のさまは得たれども実少し。 たとへば絵にかける女を見て徒に心を動かすが如し」とある。しかし単に美人の絵に見とれて心を動かしただけでは、まだ生理的であつて、変態性慾とは言はれない。さりながら、絵書に恋想恋着するものに至つては病的である。「太平記」に、一の宮が源氏の優婆塞宮の女の絵像に恋ひこがれて、気病ひになつたとある記事は、或は例の小説的作品かも分らないが、若しそれが事実ならば、慥かに絵像性フヱチスムスと認むべきものである。「洞院左大将の出されたりける絵に、源氏の優婆塞宮の御女、真木柱に居隠れて、琵琶を調べたまひしに、雲隠れしたる月の、俄かにいとあかくさし出でたれば、扇なうても招くべかりけりとて、揆を挙げてさしのぞきたる顔つき、いみじぐらうたけて、にほやかなる気色言ふばかりなく、筆をつくしてぞ書きたりける。一の宮この絵を御覧せられ、限りなく御心の懸りければ、この絵をしばし召し置かれ、見るに慰む方もやとて、巻きかへしまき返して御覧せらるれども、御心さらに慰まず。(中略)あやにくなる御心胸に充ちて、限りなき御物思ひになければ、かたへの色異る人の御覧じても、御眼をだにもまはされず」とある。
江戸時代の小説には、絵像恋愛を一の挿話として、その中に描写したものも尠くない。例へば西鶴の「三代男」には、陸奥のある名家の女が、絵にかいた美男の姿に恋着して都に上り、その男にめぐり逢つて契りをこめたといふ筋の叙事があり、山東京伝の「安積沼」には、平清盛が厳島弁天の絵像を恋ひ、隠士千代鶴が石山寺に詣でゝ、紫式都の絵像にこがれたことが描いてある。
「御伽百物語」に、京都の儒生篤敬が、名匠菱師宜師の描いた衝立の美人画に恋着し、その美人が書より抜け出して、篤敬と夫婦になつたといふことが書いてある。雑誌「東京」に矢田挿雲氏のものせられた「衝立の少女」は、之を材料として書かれたものであらうが、しかし、此の伝奇は痩啓といふ書生が、画美人と契ると云ふ支那小説の翻案である。
絵像そのものに恋着するのでは無いが、その愛人の姿を絵に書いて愛情を継続したものには、「本朝二十四孝」の戯曲に、八重垣姫が愛人勝頼の絵像に向つて 「回向しようとてお姿を、絵には書かしはせぬものを、魂かへす反魂香。名画の力もあるならば、可愛とたつた一言の、お声が聞きたい聞きたい」と怨じたやう な挿話もある。