長命丸

往年落合直文氏著の「女子和文読本」に「都の手振り」の文章を抄載したがため大問題を惹起した長命丸一件は、最早や昔の夢となつて了つたが、此頃さる人より長命丸に関する質問を受けたので、茲に私の知つてゐることだけを述べてみよう。

江戸時代には、玉鎮丹、如意丹、人馬丹、陰陽丹、士腎丹、蝉丸、鸞命丹、地黄丸、帆柱丸、といふやうな春薬があつて、いづれも支那伝来の薬法によつて調製した局所刺戟剤であるが、その中にも特に世に知れ渡つて今日までもその名の伝つてゐるのは、長命丸である。丁子、龍脳、胡椒等を調合した丸剤で、古くは万春堂、後には四つ目屋より発売し、一に四つ目屋薬と称へられてゐた天文九年、守武の独吟千句の中に「切りはゞり、長命丸や合はすらん」「拍子を打て見るはむらさき」といふのがあつて、何のことやら薩張り分からないけれども、長命丸と称するものが既に天文の頃にあつたことだけは明かである。併しそれが江戸時代に行はれた春薬長命丸と同じものか否かは固より不明である。

長命丸は江戸の外、大阪にも売つてゐた。それは新町にある四つ目屋で、「大阪繁昌記」の新町の条下に「別有二一店一、黒方燈白文字、題曰二長命丸一」とある。そして新町橋上の夜見世にも長命丸が公然販売されてゐたことは「街の噂」に「イヤ、新町橋の上に長命丸を売つてゐやしたが、お気がつきやしたか「成程々々、長命丸を見かけやした」。しかも字を白ぐ抜いた行燈でありやした」とあるを見ても明かである。

長命丸以他の春薬と同様に局所刺戟剤であるから、その濫用によつて性機関の炎症充血、化膿を来たした男女の多つかたことは「杏林内省録」の記事に徴してその一班を推察することが出来る。曰く「今時舶来の蝉丸を求めて淫を貪ぼる輩あるより、和製の春薬も亦多く之を用ひて病を起すものあり。余は都鄙にて数人を療せしに、亀頭腫れて膿を含み、或は亀頭の皮破れて膿汁出て、また黴毒を患へし人は再び旧毒を呼び出し、瘡痕開けて膿血を出だす。女子も亦然り。故に娼妓の輩、春薬を辞する由。男女とも陰所熱して痛痒堪え難く、手も放たざる等のことあり」とある。また誤つて長命丸を内服した為に死亡した者もあつた。その一例として下記の事例を挙げてみよう。「即事考」に「木挽町川島屋の娘は容貌美麗なれば、内証客を四五人も持ち盛栄に暮らし、日夜栄花に誇りしが、文化十三年、横痃起りし時、薬を取り違へ、誤りて長命丸を呑み即死す。年十九歳」とある。恐くは劇しい急性胃腸炎を惹起して死亡したことと思はれる。