人類の原始時代に於て一部落の男女が無拘束に濫婚したと云ふ「共同婚」Gemeinschaftliche Ehe 「乱婚」 Promisknitat の風の行はれたか否かといふ事に就ては諸学者間に議論のある処で、スペンダー、ラボック、グムブロクイッタ、フェーレー等はその行はれたことを主唱し、之に反してスタルケ、クエス、ターマータ、ラング、トマース等は之を否定した。這般の異諭に就ては茲に叙述するの遑を有せないが、併し乱婚が人類の野蛮時代に於て嘗て行はれたことは蓋し疑ふの余地がない。それはヱリスも論じた如く、多くの高等動物が一年に一回或は二回、春季、秋季の頃に交尾するが如く、野蛮民族に於ても春季、秋季に遠隔せる地方に男女相集会して濫交し或は夫婦の約束をなすが如き風習のあるからである。但しそれがヱリスの説くが如くに動物時代に於ける交尾期の遺習なるか否かは議論の余地あるにしても、兎に角、一定の時季に於て一部落の男女の無拘束に濫婚するといふ事実の明かに存在する以上は、人類の原始時代に於て共同婚の行はれ、それが遺風となつて猶ほ今日の野蛮民族間にも一定の時季に行はれると云ふ風に解することが出来る。共同婚の野蛮民族間に行はるることは、モルガン、ボスト、レナン、リッベルト等の認めた処であるが、我国に於ても太古時代に於て此の風習の行はれたことは、その遺風と確認すべき土俗が近代に至るまで僻陬の地方に残存したことに徴して明瞭である。国学者が神国と尊崇する我国にも嘗て遠き時代に乱婚の行はれたといふことは、彼等の自尊心を傷つけ、彼等の激怒を招くかも知れない。しかし、事実は私共の考証を枉ぐることが出来ないから、茲に平素の所見を後瀝したいと思ふ。
乱婚の遺風と認むべき者の中、第一に挙ぐべきものは、上古時代に行はれた「歌垣」である。歌垣とは春季或は秋季の頃に男女相集りて唱和し、その際、男子の方より意中の女を呼びかけて名乗りをなし交会したことで、啻に青春の男女のみならず、その中には有夫の婦人も交つてゐた。「万葉集」に歌垣のことを詠じて「鷲の住む筑波の山の、もはつきのその津の上に、誘ひて少女少男の、行もつどひかゞふかがひに、人妻にわれも交らん、我が妻に人も事問へ、この、山をうしはぐ神の、初めよりいさめぬ業ぞ、今日のみはめぐしもな見そ言も咎むな」とあるのは明かに乱婚の遺風と認むべきものである。此種の会合は田舎にては山上に、都市にては市にて行はれたもので、平安朝時代に至るまでも行はれたらしい。それは「大和物語」に「よき人々、市に出できてなん、色好むわざをしける」とあり、また「拾遺集」にも「すぐろくの、市場に立てる人妻の逢はで止みなんものにやは在らぬ」といふ歌のあるに徴しても分かる。私の考察する処に依れば、歌垣の風習は南部支那より我国に渡来した異民族によつて輸入された乱婚の遺風であらうと想はれる。それは「簷曝雑記」に南支那の蛮族なる●(さんずいに真)黔苗●(けものへんに果)の風俗を記せる文中に「男女之事不甚有別。毎春月。趁墟唱歌。男女各坐一辺。其歌皆男女相悦之詞。其不合者亦有歌拒之。若両相悦則歌畢。輙携手就酒棚並而飯」とあるに徴すれば南支那の蛮族に行はれた男女濫交の風習と我国の上古時代に行はれし歌垣との如何に酷似せるかを知ることが出来よう。
我国の上古時代には歌垣が盛んに行はれたが、その後、支那の文化の輸入されて男女の別といふことが喧ましくなると共に、一方には風俗上の取締から都の近傍で歌垣をなすことが屡々禁止せられたが、しかし、禁合の幾度も出でたことは、古来の風習の容易に廃れなかつた反証であつて奥羽地方に於ては近世に至るまでも歌垣に類似せる風習が行はれてゐた。羽後国仙北郡の一部なる檜木内や田沢などでは、妙齢の女子を有てる父母は、陰暦正月十五日の夜に於て一定の場所に仮小屋を設け、青春の男女を会合せしめて一夜を徹せしめる。そして会合した男女は如何なることを為すかと云ふに、男子は打ち藁を携へ行きて草履を作り縄を綯ひ、女子は麻苧を持ち行きて麻綜を編み、仕事が終つて後、互ひに歌謠して終夜歓笑する。若し妙齢の子女を有てる家にして之に会合するを拒むものあれば、一郷の青年男子挙つてその家に押しかけ、砂石を投じ誹謗の言を吐き、飽くまでその女子の他に婚嫁するを妨害する。此の如き風習が歌垣の遺風なることは言ふ迄もない。伊豆の七島、就中、新島にても近年まで毎年旧盆の日には何人の男女を問はず乱婚を許したもので、幾群の男女が浜辺に集つて歓楽に耽り、日中と雖不問に附せられたと云ふことであるが、島役所及び警察署等にて厳重に取締るやうになつてから、乱婚の風は減じたものゝ、併し今でも旧盆には数組の男女の密会が時々発見せられるそうである。その他明治の初期までは、宇治の県神社の六月五日の祭礼には、諸国より集り来る多数の男女が神社の境内及び旅館に於て、知るも知らぬも雑魚寝した風習がありまた丹波国南桑田郡稗野田神社の下の宮上の宮の八月十四日の祭礼には、遠近より群集する男女が神社の境内にて徹夜し濫交する風習があつた。
昔は「大原の雑魚寝」といつて、山城国愛宕郡大原村文文明神の社内に幾群の男女の集つて濫交する風習があつた。また「諸州奇談」に記する処に依れば大和の十津川にも雑魚寝の風習があつて、村内の妻子奴僕を擇ばず、また旅人に至るまで、行きかへりに男女の寝所を同ふしたこともあつた。元来人眼を守る關がないので嫉妬する心も嘗て無く、また色慾のために身を亡ばした者もなかつたが、併し京阪より多くの人が入りこむので、僻陬の山村ながら賑やかなる土地であり、隨って性病の蔓延が甚だしかつたと云ふ。
歌垣を始め、上記の風習は、いづれも原始時代に行はれた共同婚の遺風と認むべきものである。我国に於ても這般の事実の存在すること明かなる以上は、海外諸国にも原始時代に乱婚の行はれたことは固より疑ふべくも無い。ことに我国にては僻陬の地方に於ける民俗の中近年に至るまでも猶は共同婚の行はれ、一村の処女を共有にした風習のありしことは明白なる事実である。例えば、越後の頸城郡の村落にては、その一村の娘は若者の共有であつたので、娘が他村に嫁する場合には若者全体の承諾を受けねばならなかつた。若し不承諾の時には一先づその村の若者と仮りに結婚した後、始めて他村に嫁することになつてゐた。美作の勝北郡の村落にても、娘の結婚せんとする時には、村の若者の承諾を経ねばならなかつた。磐城国石城郡草野村附近でも、一村落の婦女はその村の若者の共有であつて、少女が年頃になると正月十五日の夜に若者に身をまかせねばならなかつた。阿波の三好郡山城谷村でも、娘と寡婦とは一村の若者の共有であつたから、若し他村のものがその村の娘と通じようとする時には、先づ以て村内の若者の黙認を得るがために酒を買つて飲ませねばならない。さうしなければ若者より殴打せられるのが常であつた。
此の如く共同婚の行はれた村落にては、若し一人の男が一人の女を独占すると、その男は独占に対する相当の義務を担任しなければならぬと共に若者全体より嫉視せられ虐待を受くることは必然の結果であつて、それが遂に形式的の行事となるに至つた。例之ば下総国猿島郡の水掘村では毎年三月初午の祭礼の際には、新婚の男に神輿を舁がせて池の中に這入らせ、村民一同は池の周囲に立ちならんで、各自泥土を手にし、池中より上らんとする新夫に対して四方八方より泥を投げつけ、さんざん酷い目に遭はす行事が昔に行はれ、下野国芳賀郡山前村では、雨乞ひ地蔵といへる尺余の石像があつて、それに雨乞ひをなす場合には、村の若者一同が集つて石地蔵を引きづりまわし、鎮守の社に持ち行つてそれを川水の中に投げこみ、次で引き上げることゝなつてゐるが、その際石地蔵を水中より引上げる苦しい役目に当るのは新婚の男子で、川の中に飛びこみ、水を潜つて石地蔵を抱きかゝへ、水面に浮び出ると、川辺に立ちならべる若者一同は、この新婚の男子をめがけて水を打ちかけ、さんざんに苦める行事があり、武蔵国南埼玉郡稲間村では、毎年一月二十五日、産土神の祭礼の際村民全体は神社の拝殿に参集し、その中央に大なる火炉を据えて盛んに火を燃やし、天井板に焦げつかん許りになると、火炉に水を注ぎつ、炉辺を駆けめぐるのであるが、此際熟灼せる火炉に最も近く接して駆けめぐらねばならないのは新婚の男子で、劇しい火気より受くる苦痛を忍びつゝ炉辺を駆けめぐるのである。また武蔵の児玉郡児玉町の近在にては正月十四日に新婚の男子を池の中 に投げこむ行事があつた。
此の如く新婚の男子を虐待する行事が、特殊の形式的儀礼として行はれたのは、要するに共同婚の習俗に胚胎したもので、則ち一村落の若者の共有であるべき筈の婦女をば一人の男子が独占すると、之に対する嫉妬の念より苦痛を与へ、またその男も義務として之を甘受しなければならなかつた風習が遂に一種の行事となつたものと解すべきである。元禄の頃まで行はれたる石打ち及び水祝ひの如き風習も亦た前記の新郎虐待とその揆を一にせるものと云つて可い。石打ちとは婚礼の夜に比隣の男子が新郎の家に瓦石を飛ばして戸障子を破り、大に罵りわめいた風習を云ひ、水祝とは、陰暦正月十五日の夜、郷党のもの総出にて前年に結婚せる新郎の頭上に冷水を浴びせる奇習である。この風習は、東北、関東、北陸、関西諸国を通じて汎く行はれたものであるが、元禄二年に至て禁止せられた。併し北陸及び東北の辺土に於ては明治以後までも行はれ、越後の北魚沼郡堀内といふ僻陬の地方の如きは、明治六年までも此の風俗が残り、また宮城県磐城国亘理郡山下町にては明治三十五六年の頃までも町全体のもの総出にて水祝をする風習が行はれてゐた。