江戸時代の二百六十余年間は、太平が打続き、往々凶作飢饉による一揆騒動の発生以外には社会の秩序が能く維持せられ、上下静謐に馴れて民衆の生活が極めて平和安定であつたことは、種々の政治及び社会的原因事情にも因るが、しかし、私の観る処を以てすれば、江戸時代には人口の増殖が著しからず、食糧の生産額と消費額とが能く調和を保ってゐたことは、その主要なる原因の一であつたと思はれる。
試みに享保十一年から弘化三年に至る間の人口増数を挙げて見ると、実に左の如くである。
| 享保十一年 | 二六、五四八、九九八人 |
| 同十七年 | 二六、九二一、八一六人 |
| 宝暦十二年 | 二五、九二一、四五八人 |
| 明和五年 | 二六、二五二、〇五七人 |
| 安水三年 | 二五、九九〇、四五一人 |
| 同九年 | 二六、〇一〇、六〇〇人 |
| 天明六年 | 二五、〇八六、四六六人 |
| 寛政四年 | 二四、八九一、四四一人 |
| 文化元年 | 二五、六二一、九五七人 |
| 天保五年 | 二七、〇六三、九〇七人 |
| 弘化三年 | 二六、九〇七、六二五人 |
(但し式士、公卿、穢多、非人を除く)
右の表に依れば、享保十一年、即ち今より二百余年前に於ては、我国の人口の総数は二千六百五十余万人で、爾来年によつて多少の増減があつたが、その差は甚だ僅微である。明和以後は人口の減少を来し、寛政四年に至つては二千四百八十九万人に減少した。されば享保十一年より寛政四年に至るまで六十六年間には、人口数は百六十五万人の減少となつてゐる。爾来再び増加して、弘化三年には二千六百九十万人を算するに至つたが、しかしこの五十四年間には二百万人を増加した計算で、即ち毎十年平均三十七万人の増加割合であるからその増加率は毎十年に百分の一・四に過ぎなかつたのである。
此の如く徳川全盛の百二十余年間に於ける人口の増加は、実に遅々たるもので、無事太平の世としては意外の感なきを得ない。之に反して食糧の生産高は逐年増加し、元禄元年には全国の米穀生産高二千五百七十八万六千石であつたものが、その後次第に増加して、天保七年頃には三千四十三万五千石となつてゐる。此の間の年数は百四十七年であるが、米の生産高の増加は実に四百六十四万八千余石に達してゐるのである。このやうに人口増加の割合に比して米穀の生産高が遥かに優つてゐたがため、食糧の生産高は消費高に超過し、凶作飢饉の時を除くの外は、一般に食料の価格が低廉であつたので、民衆も生活の脅威を蒙むらずに、太平の世を送ることが出来た。
然らば人口増加率の低かつた原因は何かといふに、その主なる原因は堕胎と殺児とが行はれたがためである。此の如き悪風陋習は固より大いに排斥すべき罪悪であるが、しかし之が行はれたがために、過度に増殖すべき人口を調節することが出来、従つて食糧問題も起らずに、二百六十余年の太平を維持することが出来たのである。
太平の世に堕胎殺児が盛んに行はれたのは、必ずしも淫靡享楽のため許りではない。生活の安定上、余儀なく之を行つた者が農民及び武士階級に多かつたのである。江戸幕府の施政方針として、農民をば「生かさず殺さず」と云ふ風に冷酷に取り扱ひただ年賀を上納する被搾取的労役者としてその生存の価値を認めたに過ぎなかつたから、農民の生活は実に悲惨なものであつた。彼等はその領主のために額に汗して米を耕作しても、その常食とするものは、麦、稗等の雑穀であって、白米を口にすることは殆ど出来なかつた位みじめな生活を送りてゐた。されば彼等はその生活の窮乏の結果として、勢ひ産児を制限せざるを得ない。人口数の六割以上を占める農民の産児制限は、実に江戸時代に於て人口増加率の振はなかった主要の原因である。また武士階級に於ては、家禄が一定し領分は固定せるがため、妄りに繁昌しては堪まらない。已むなく産児を制限しなければならぬ。「屠龍工随筆」(安永年代刊行)に這般の消息を記して「一万石の地は一万石、十万石の地は十万石にして、尺寸も増すことなし。あゝ今世、家々の名君膳部を減じ、内寵をやめ、身をつゞめ、倹を守らるゝといへども余分なきは何ぞや、年々に家の子多くなる故ならん云々」とある。将軍膝下の江戸に住む旗本御家人は産児制限をしなかつたが、諸藩の武士、殊に下級の武士は盛んに産児を制限したものである。
江戸時代に於て堕胎の風習がいかに盛んに行はれたかは、種々の随筆雑書等に散見する記事に徴して明かである。「草木六部耕種法」には、上総に堕胎の風の行はれることを記して、「彼の国の百姓十万家ある中にて妊み女の自らその児を堕して殺すこと毎年三四万人づゝなり」といひ、「田家茶話」にも「国々にては孕める子を四五月目におろすことあり、これは国の風にて菜大根を棄つるやうな心持ちにて罪とも何とも思はざるなり」とある。加之、堕胎を業とした者も沢山あつて、その中には家先きに子持縞に錠を染めた暖簾を下げ、子をおろす家業なることをそれとなく暗示したものもあつた。西鶴の「諸艶大鑑」の中にも、「生け垣のうちに張紙、万葉書きにして屋弥様於呂志とありしことおかしく」とあり、また「好色五人女」の中にも、「この女、もと夫婦池の小さんとて子おろしなりしが、此の身すぎ世にあらためられて、今はそのむごき事を止めて素麺など引きて一日暮らしの命のうち云々」とあり、また「栄華一代男」には「腹取りの上手と申し上ぐれば、こなたへと常の挨拶とあるも子おろしなり」とある。
堕胎を業としたものは主として女医であつた。「塩尻」に次のやうな記事があ る。「過し年、東都牛込某の町に在りし女医、頓に病に罹り、七て照丶八さ倒、隣家をして驚かしむ。悶乱悲声、嬰孩の痛叫するに似たり。自ら曰く、頭脳砕け心腹裂くと。また云ふ、赤子許多枕上にありと。手して打払ひけるが、三日といふ暁、狂ひ死せしとかや、之を聞くに、彼女常に下胎の薬を売りて年を過せしとぞ」とある。都下に於て堕胎を業としたものは所謂中条流の女医産婆で「松屋筆記」にも「今の世、中条流の子をおろすの術、都下に遍満せり、堕胎の薬技を施すことなり」と見え、また「類聚名物考」に「今世にいふ女医師にて中条流といへる堕胎、その他閨門の内諸病を療治す云々」とあり。「よしあし草」に、「前の堀に堕胎薬の引札剥がしても剥がしても、何時来て張ることやら、人目をかすめる商売」とあるに徴しても明かである。そしてその堕した胎児は水子と云つて、本所回向院の墓地に葬つた。「医事小言」に「当時女医師が宅預りと唱へ、七月分、一両二分を申し受け、水子と称して本所回向院へ二百目または一朱を添へて送る」と記してある。
堕胎に封して幕府の禁令を発し「子をおるすの術を禁ず」といふ町触れを出だしたのは正保年代のことであるが、実際に於ては禁止されさうにもなく、益々秘密裡に之を行ふものが多くなつて来た結果、遂に延宝八年に至つて堕胎を業とする女医を厳禁し、「市中女医者と唱へ侯もの、血の道の療治正しく致侯得ば苦しからず侯処、その中には妊娠のものを頼みに応して預り置き、堕胎いたさせ侯類も有之哉に相聞え、不届の至りに侯。向後右様の儀相聞ゆるに於ては頼み人までも逐一穿儀、急度処分申しつくべく候間、かねて此の旨可存候」と云ふ禁令を出した。しかし堕胎の風が盛んに行はれるので、更に天保年間に至って前同様の禁令を出したが、同しく何等の効を奏しなかつたが、遂に明治元年十二月に至り、天下に令して産婆が妄りに薬を売り、或は堕胎することを禁じた。
殺児の風習も全国を通じて行はれたが、ことに東国に於て甚だしかつた。「甲子夜話」に「奥州の民間に子を産すれば即ち殺して育つることなし。是れ取り上げ婆の産所に於てかく為すことにて、常州の俗に同じきが、然るを楽翁始め、白河に入郡ありしより殊に之を禁じ、国中に令して民間に妊み女のある時は届けさせ、医者一人と産婆一人とをつがはし改め、臨産の時もまたつかはして取り上げさせける。その手当として一口に金一両二分宛を与へしとぞ」とあるが、この一事に徴してもその一班を知ることが出来る。「窓のすさみ」にも「庄内(酒井氏領分)の民、東国の習ひにて、子生れて三四人に及べば間引きとて殺し棄つるを、老臣水野大膳、深く之を患ひ、さまざま思ひけれども、とかく改めざりければ、貧民の養ひ難きものを選び、その子の五歳になる迄扶持米を与ふることになして此の風改りぬとぞ」といひ、「人国記」には陸奥の風俗を記した条下に、「近頃までは民家に子をぶつかへすと云ふことあり、産子三乳に及びぬればその父母之を絞殺す、人之を恠まず、父母も忙然として惜む色なし」とあり、「鎔造化育論」にも「十室の邑、年々堕胎陰殺赤子者、不下二三人、或一国及七八万者往々有レ之、況於四海之大、可勝算乎」と記し、また「近世畸人伝」にも「関東の習ひ、貧民あまた子あるものは後に産せる子を殺す、これを間引といひならひて敢て恠しむことを知らず」とある。
啻に東国のみならず、山陽、四国等の方面にも維新前までは盛んに生児を間引いたもので、取り上げ婆は児の生れ落ちると「どうしましようか」といつて暗に絞らうかの意を仄めかした。備前備中方面などでは殺した児は砂山の中に埋めたり或は藁に包んで男の子には扇子を、女の子には杓子をいれて川や海に流したものである。
以上概述した如く、江戸時代に堕胎殺児が行はれた結果、人口の激増を制限することが出来た。若し人為的産児制限が行はれなかつたならば二百六十余年の間に、どれだけ人口が増加したか知れない。堕胎殺児の罪悪も一面に於て過度に増殖すべき人口を調節して、人口と食糧との権衡を保ち、民衆の生活状態に左迄不及なからしめて、二百六十余年の太平を維持することが出来たのである。