一(我国は情死国と称せられてゐる程、情死)

我国は情死国と称せられてゐる程、情死をする男女が多いが、しかし、それが今日の如くに盛んに行はれるやうになつたのは、江戸時代の天和(第五代将軍綱吉の治世)頃からである。自由恋愛の大に行はれた奈良朝及び平安朝時代には、情死と認むべき者の痕跡だも無い。但し「源氏物語」の「浮船」の巻には、随分際どい処までやつてきてゐるが、情死にまでは及ばなかつた。唯だ「大和物語」の中に記せる少女塚の伝説はゝ二人の男が一人の少女を恋ひ慕つたので、少女はいづれの男の意にも応じ難く入水したのを、二人の男もその跡を追つて投身したといふことが記してある。しかし、これは「万葉集」にある芽沼男の情語の転訛であつて、決して合意の共同自殺でなく、言は死と云ふべきものである。

王朝時代より鎌倉時代にかけても情死らしい事実は少しも見当らないが、南北朝時代に至つて始めて情死の一実例が現はれた。それは「吉野拾遺」の中に見える記事で、里村主税の若党と内侍の女童とが、身の措き処のないので、山林に分け入り、共に刄に伏して自殺したことがある。この二人が「この世こそ、つたなからめ、後の世は久しう」と語つたとあるのは、後世の江戸時代に於ける心中思想の先駆であつて、即ち未来の世までも添ひ遂げげるといふ思想は、既に南北朝の時代より漸く開けてきたことが、これで分かる。しかし、江戸時代の初期に至る迄は再び情死の跡を絶つた。

江戸時代に於ける情死の初とも云ふべきは、寛永十七年、伊丹左京といふ美少年が自分を恋慕した細野主膳を殺して切腹を命ぜられた処が、左京と愛し合つた舟川采女といふ少年も共に自殺したことで、この事実は「藻屑物語」に詳記されてある。併しこれは男色の関係より起つた同性の情死であるが、相思相愛の男女間に死を共にする者の現はれてきたのは、自井権八と吉原の遊女小紫である。しかし権八の所刑されたのは延宝七年十一月で、それから大分月日の経つて後、権八の遺骸を葬つた東昌寺の墓前に小紫が自殺したのであるから、その実は殉死であつて情死とはその趣を異にしてゐる。お夏清十郎の件も亦た之と同様で、清十郎が死罪に処せられると、お夏は刑場の埒外に於て自殺したのであるから、これも矢張り殉死である。