相愛の男女の合意的共同自殺ゝ即ち情死は天和の頃から始まつた。近松の「心中刄は氷の朔日」に「誰が仕初めし此の契り、音に聞きしは生玉の、それが始めのだい市の丞」とあつて、市の丞をば情死した女の初めと認めてゐる。この女は西鶴の貞享二年に著はした、「好色二代男」の中に情死者の一人に挙げられてゐる大阪新町の遊女屋大和屋抱への市の丞であるからゝ貞享二年前に此の遊女がその情夫と自殺したのが情死の始りであらう。そして「京阪歌舞伎年代記」に記する処に依れば、市の丞の相手の男を長右衛門といひ、共に死んだのは天和三年五月十七日の夜とあるから、江戸時代に於ける情死の元祖は、市の丞、長右衛門であつて天和三年を初めとする。二人の情死は当時大に世の評判となつたものと見えて、大阪三座の劇場共に之を狂言に仕組んで上演したと云ふ。されば、これも亦た心中狂言の開祖である。
情死に心中といふ異名を附したのは、私の観る処を以てするに、恐らくは西鶴本の中にもある「心中死」の名称より起つたことであらう。元来心中と云ふことは情死を指したのでは無く、単に相手の男一人のみを思ふといふ意味であつて、而もこの言葉は娼婦のみに限られてゐた。そして相手の狎客に二心のないことを示す証拠として行ふ処の方法手段を「心中立」と云つた。その中、最も簡単で且つ普通に行はれたものは、夫婦約束の起請誓紙であつた。さりながら客の方では形式的の証文位で、満足しない者が多いので、此様な客には自己の頭髪を切り或は爪を剥ぎ或は小指を切り、なほ疑ひ深い客には、自分の腕に何某命の文字を入墨して二心のない証拠にした。しかしゝ心中立として最も力強いのは客に死を誓ひ死を共にすることである。それ故、情死に「心中死」といふ名を附するに至つたのであらう。処がいつしか死の字を畧して単に心中と呼ぶやうになつたので、心中と云へば情死を意味することになつて了つたのである。
天和三年大阪の遊廓新町の娼婦市の丞とその狎客長右衛門とが始めて情死してより次第に心中者が陸続あらはれるやうになつた。貞享二年刊行の「好色二代男」には、新町の娼婦で情死した久代屋の紅井、紙屋の雲井、糸屋の初之丞、天王寺屋の高松、和泉屋の喜内、伏見屋の久米之介、住吉屋の初世、小倉屋の右京、柏屋の佐保野、大和屋の市之丞、丹波屋の瀬川、野間屋の巻弼等の名を列挙してある。更に元禄年代に入つては、同八年に三勝半七、十五年にはお初徳兵衛を始めとして、いろいろの心中事件が前後して起つた。大阪で情死の最も盛んに流行したのは元禄より宝永正徳にかけての時代で、その中にも北の曽根崎新地の遊廓より多くの情死者を出だした。「西洋文庫脚色余録」に「浪花の遊所にて心中のありしは北の新地に多く、南の新地は暢気浮気を喜ぶの地にして、自然と薄情なるを習はしとするが、心中甚だ少し」とある。