三(元禄より享保に至るまで、情死の盛んに流行したに乗じ)

元禄より享保に至るまで、情死の盛んに流行したに乗じ、心中を題材とする作品の前後踵出するが中にも、殊に時好に投じたものは、近松の曽根崎心中、心中重井筒、心中二枚絵草紙、今宮心中、心中天の網島、心中宵庚申等があり、近松以外のものには紀海音の作に成れる心中の玉の井、難波橋心中、心中二つ腹帯等である。かくして寛文の頃には髪切りゝ指切りなどの名であつた「心中」といふ言葉は遂に情死のみに限られるやうになり、且つ近松や紀海音の艶麗なる美文佳句で相思の男女の惨ましい悲劇を美化して華やかな、羨ましいやうな最後なるが如くに描いたので、その暗示を受けて、心中沙汰が盆々多くなつて来た。それが特に甚しかつたのは宝永正徳の年代であつた。宝永元年版の「忠孝永代記」に歴々の男、遊女のためにさし違つては、その名を堀江の川に流し、或は梅田の雨にそゝぎては朝夕に白骨をさらすのみなり。取りわけ此頃は都鄙共に珍らしからず」とあり、宝永七年版の江島屋其磧の「曲三味線」にも、当時流行の心中をば伝屍労(結核病)に比して心中伝屍労とさへ書き、また同じく宝永版の前句附にも「はやるははやるは。乞食の寝たのも心中と人云ふ」とある。正徳年代に入つても、なほ情死の流行したことは、俳諧つぶての竹文点に「つづいたりつづいたり、水の出花の心中が」とあるに徴しても明かである。

上述の如く天和より、元禄、宝永、正徳にかけて流行した情死は専ら上方に於て行はれたもので、書方軒が前後十五年に亘つて蒐集した「心中大鑑」の材料は京阪に於ける出来事であつた。その記事を見ると、情死の主体たる女は売笑婦であつて、良家の娘が之に次ぎ、男は商人及び職人である。また身分的関係をいへば、情夫情婦十四、夫婦二、姦夫姦婦一の割合になつてゐる。然るに享保年代に入つてからは心中沙汰が著しく減少し、享保五年の十二月に興行された近松作の「心中天の網島」の中にも「やうやう此頃この廓の心中沙汰は鎮つた」とある。元禄宝永の頃に甚しく流行した新地遊廓の情死も享保頃に至つて漸く流行止みとなつたのである。