四(抑々心中を主材とせる戯曲の嚆矢は)

抑々心中を主材とせる戯曲の嚆矢は、紀海音が元禄十五年の五月に出した「心中の玉の井」である。それは堺の材木町糸屋の娘お初と手代の久兵衛とが相通じ、事あらはれて河内へ駆け落ちせんとする途中、百舌の畑の中にある古井戸に投身して情死したのを脚色したもので、先づ堺の地に興行し、引き続いて大阪の豊竹座の操芝居に演じた。その後三月ばかり経て、同じく紀海音の手に成つた「金屋金五郎浮名額」といへる心中浄瑠璃が興行された。これは大阪島の内の額風呂の湯女小三と俳優金屋金五郎との情事を脚色したものであるが、しかし、実際は情死でなく、金五郎が小三のもとへ通ひつめて居るうちに感冒に罹つて重病となり遂げに死亡したので、小三は悲しさ遺らん方なく、髪を剃つて尼になつたとも伝へられ、或は発狂したとも言はれてゐる。金五郎の病死したのは元禄十四五年の頃で、それを海音が脚色して心中狂言としたのである。

その翌年元禄十六年の四月に、大阪内本町醤油屋の平野屋の奉公人で、曽根崎附近へ作り醤油の販売を受け持つてゐた徳兵衛と、もとは島原の娼婦で後に曽根崎に鞍替したお初とが曽根崎の天神社の境内に於て情死した。それから僅か十五日を経て、竹本座の操の舞台に上演したのが近松の傑作の一なる「曽根崎心中」であつて、それが非常に人気に投じ、大入り大繁昌を極めて、心中文学流行の魁となるに至つたのである。さりながら時代の上から観ると、後年世話浄瑠璃の題材となつた心中の最初は元禄八年十二月六日の夜、大阪の千日前で自殺した茜屋半七とその情婦の三勝との情死であつて、即ち北新地にお初徳兵衛の心中事件の起つた元禄十六年に先つこと実に八年前の昔である。三勝と半七との心中を紀海音が脚色して「笠屋三勝二十五年忌」と題し、大阪の豊竹座に上演したのは、情死の当時より遥かに年処を経た享保元年であつて、その後、明和九年に至り、竹本三郎兵衛の「艶容女舞衣」が世に出で、大正の今日になつても「今頃は半七つさん、何処にどうして御座らうやら」と仇つぽいさわり文句に浮名をうたはれてゐる。三勝は本名をさんと云つた大阪島の内の湯女で、半七は大和五條の豆腐屋の息子であつた。商用で大阪に往来する間に三勝と馴染みを重ね、遂げに家産を蕩尽するに至つたので、親族協議の結果、妻を迎へて半七の放蕩を止めさそうとしたがため、半七は三勝と謀て大阪千日前墓所の南側の畑地で情死したのであつた。

元禄より以前の天和貞享の頃には、西鶴の「好色二代男」に徴して知らるゝ如く、新町の公娼中に多くの情死者を出した。しかし、それは「残らず端女郎」とあるやうに、いづれも低級の娼婦であつた。但し高級の公娼、即ち太夫職の中で情死したのは「好色二代男」の記事に依るに、雲井といへる太夫のみであつた。処が元禄より享保に至るまで情死者の多く出たのは北新地の遊廓である。しかし北新地は新町の公娼地なるに反して私娼地であり、随つて太夫、天神の如き高級の遊女は居らなかつた。「曽根崎心中」のお初も「心中二枚絵草紙」のお島も「心中天の網島」の小春も皆私娼であつた。最初公娼地の新町の低級娼より流行し出した心中は、先づ島の内の私娼たる湯女三勝を襲ひ、それより約八年の後、始めて私娼地の北新地にお初徳兵衛の情死事件を生じ、それが近松の「曽根崎心中」となつて情死文学流行の先駆となつたのである。

さりながら「曽根崎心中」の出た元禄十六年の頃には、大阪の地に於て他にも情死するものが多かつた。「南水漫遊」に、元禄十六年版の「心中恋の魂、竝名寄鹿名子」といへる草紙を引証して数多の情死者姓名年齢を列挙し、なほ此草紙の奥書に「この他、珍らしき心中出来次第、あとより書き加へ、追ひ追ひ出し申候云々、元禄十六年七月」とあるを見ても明かである。