元禄十六年の四月、近松の最初の心中戯曲の題材となつたお初徳兵衛の「曽根崎心中」に引続いて起つた情死で、同じく近松の麗筆に描かれたものは「心中重井筒」のお房徳兵衛の心中事件である。この二人の心中は「南水漫遊」には宝永元年十二月十五日夜で、お初徳兵衛の梅田にて情死した翌年とあり、また「外題年鑑」には、宝永元年四月十六日、竹本座で上演されたとあつて、情死の年月を宝永元年三月二十九日とする関根只誠の考証もある。それは兎も角として、お房といふのは大阪島の内六軒町の茶屋重井筒抱への遊女、その相手の徳兵衛は、大阪万年町の紺屋の養子となつた妻子のある男である。
島の内六軒町とは、今の玉屋町、昔の塗師屋町の異名で、宝暦時代の頃には、なほ二三軒の茶屋が残つてゐたが、元文、寛保の頃までは六軒あつて、軒頭の釣行燈に各繁昌を争うてゐたが、固より低級の私娼窟に過ぎなかつた。お房徳兵衛の情死した場所は、高津大仏殿の勧進所の前で、男は先づその手にせる刀を以て女の頸部を一思ひに刺した後、人に見咎められじと、畑中をそこ此処と忍び隠れて自殺せんと企てゝゐるうちに誤つて畑中の埋れ井戸に陥つて溺死したのであつた。
お房徳兵衛の心中に次で起つたのは近松の「心中二枚絵草紙」に描かれたお島市郎兵衛の情死である。男は大阪長柄村の農夫介右衛門の息子、女は新地の天満屋の抱へで、情死した場所は長柄堤であつた。女は剃刀を以て咽喉を切り、男は脇差で頸部を刺して死んだ。これが脚色されて操り狂言に上演されたのは、宝永三年の三月であつた。
これまでの情死は、男が先づ手を下して女の頸部を刺し絶命せしめて後、自身も同じく頸部を刺して死し(三勝半七、お初徳兵衛)或は女を殺して後誤つて溺死し(お房徳兵衛)或は男女別々に頸部を刺切して(お島市郎兵衛)自殺したのであるが、然るに宝永六年の秋、大阪の今宮戎神社の森に於て松の木に絹をかけて同時に縊死したおまさ治郎兵衛の情死は、当時には珍らしい共同縊死であつたので、世上の評判に上り、近松は「今宮心中」紀海音は「九腰連理松」といへる外題の下に之を脚色した。連理松とは二人が松の木に一反の絹をかけ、相並んで縊死したから附けた名で、当時世間では掛け鯛心中と称へて大評判であつた。近年諸新聞諸雑誌の記事を賑かした波多野秋子、有島武郎の情死の方法と同じである。男の治郎兵衛は大阪本町菱屋四郎右衛門の手代、女のおまさは此家の下女であつた。二人の縊死に用ひた絹は主家から盗み出したもので、戎神社の森の木に二重三重にしめつけ、相並んで首を縊り「松にかゝれる下がり藤、嵐になやむ如くにて、次第々々に弱りはて」共に冥目したのであつた。