右の他、宝永六年七月に興行した近松の「心中刄は永の朔日」に描かれた情死事件は、鍛冶を渡世とする大文字屋の若い職人の平兵衛と新地平野屋の娼婦小かんとが大阪の郊外なる藍畠で自刄したのを脚色したもの。正徳五年八月興行の「生玉心中」は、大阪松屋町の茶碗屋の息子嘉兵次と阪町の相屋抱への娼婦さがとが生玉で自刄したことを仕組んだもの。享保五年十二月興行の「心中天の綱島」は大阪天満の紙屋治兵衛と新地の紀の国屋の娼婦小春とが綱島に於て情死し、男は刄物にて女を殺し、次で樋の上で縊死した事件を脚色したものである。
「曽根崎心中」の出でゝより後も近松の心中戯曲の大部分は娼婦との情死を主材としたものであるが、唯だその除外例は、播磨の武士成田武右衛門の次男で高野山の吉祥院の小姓であつた久米之介と云ふ十九歳の青年と高野山麓の雑賀屋与治右衛門の娘お梅とが結婚の出来ないために女人堂で情死したことを仕組んだ「心中万年草」。大阪北久太郎町の道具屋傘屋長兵衛の娘お亀とその聟の与兵衛とが家庭の葛藤から梅田で情死を企て、女は死んだが、男は死に損つたといふ「卯月紅葉」。死に損つた与兵衛がその後、剃髪して法師となり、大和国平郡谷の念仏庵に閉ぢこもつて日夜亡妻お亀の菩堤を弔つてゐたが、夢ともなく幻ともなくその亡霊を見て、愛着の迷ひの炎のために、位牌の前で自殺し跡追ひ心中をしたといふ「卯月の潤色」。大阪靱町の八百屋の養子半兵衛が姑の邪慳のために女房のお千代と生玉の大仏勧進所で自殺した『心中宵庚申」である。
以上挙げた者の他、宝永六年の頃、大阪の老松町の飾間津屋弥市と北新地の娼婦で万屋抱へのおたかとが梅田の墓地で情死し、男は剃刀を以て女の咽喉を切つて殺した後、その剃刀で自殺しやうと思つた処が、その刄に損じが出来たがため、小家の柱に帯をかけて縊死したのを、紀海音が脚色して「梅田心中」といへる外題の下に上演し、また享保以前の作とおぼしき紀海音の「難波橋心中」もあつて、それは板屋五郎兵衛の甥の五郎吉と新町の遊女八しほとの心中を脚色したもので、男女各自剃刀を以て自刄したのである。
以上は元禄から享保にかけて世に出でたる心中浄瑠璃の題目とその事件とを挙げたもので、いづれも豊富なる詞藻、艶麗なる文辞を以て情死を美化し詩化すると共に相愛の男女の悲劇に無量の同情を寄せたものである。しかし、近松とても情死を以て必ずしも讃美すべき恋の最後とは認めて居なかつた。「長町女腹切」の中の文句にも「世間に多い心中も、銀と不孝で名を流し、恋で死ぬるものは一人もない」とまで喝破してゐる。さりながらその恋愛に対して極めて同情ある態度と、情死者を描ける美しい文章とが青春の血潮の漲れる男女の威激共鳴を得て当代に持てはやされ、心中事件を踵出せしめたことは固より論ずる迄もない。しかし又他の一面には此様な美しい華やかな文章によつて自己の浮名や恋の最期をうたはれて見たいと云ふロマンチックな虚栄心と、例の未来までもと云ふ二世の契りの思想とが相絡んで、喜んで情死した者も尠く無かつたに相違ない。「心中重井筒」に「二人の噂、世話狂言の仕組の種となるならば我を紺屋の片岡に、何とか思ひ染川は、台辞に泣いて呉れよかし」といふ文句には、這般の虚栄が暗に仄めかされてゐる。されば近松等の心中文学は情死に対して有力なる暗示を与へたと共にその奨励ともなつた。