私は是より論歩を転じて、何が故に元禄の前後頃より俄かに情死の盛んに行はるゝやうになつたかと云ふ史的事実の原囚を観察したい。若し単に未来の世までも添ひ遂げたいと云ふ一蓮托生主義の迷信が情死の根本原囚であるならばあながち元禄期を待たずとも夙に遥かに以前の時代より情死事件の頻発して居るべき筈であるのに、此様な事実の認められないのを見れば、情死が仏教の信仰に根ざして居らないことを容易に看取することが出来る。然らば情死の根本的動機は何であつたと云ふに、元禄期に於ける民間経済状態の発達に伴ふ中流下流階級の生活の動揺、生存の脅威に外ならない。即ち情死なる恋愛的悲劇も亦た唯物史観の方面より説明することが出来るのである。
抑々江戸時代に於て表面上権勢を得て大に威張つてゐたのは勿諭武士であったが、併し本当の実力は既に商人の手に帰してゐた。天下泰平といふことは、取も直さず経済的発達を意味する。戦乱時代は武力本位の社会であるが、平和時代に於ては経済本位の社会であり、随つて武士は唯だ表面に於ける権勢を惰力的に維持するに過ぎない。殊に日本国の台所とうたはれて百貨の四方より輻輳する大阪には、早くから多くの金持を生じ、それが事実上最大の実力を具へ、社会の最高要素となつてゐた。加之、大阪は豊臣氏以来、町人を以て満たされた自由の商業都市として発達したが上にも、町人の頭を抑へる武士的勢力が無かつたので、自然に日本に於ける経済的中心となつた。此の如く町人が実力と時勢との背景によつて擡頭し、新興文化の先駆者となり、中心勢力となつたのは実に元禄期に於ける新現象である。ことに元禄八年以降、貨幣の改鋳せられて通貨の大に膨脹してより、さらぬだに富の中心地たる大阪には莫大の貨幣が流入して商業取引は益々盛んとなり、弥が上にも富を蓄積した金持階級は、戦国時代の余風たる男性的気象も加つて、豪放濶達なる生活を送るやうになつた。
さりながら如何に巨万の富を擁しても、町人は矢張り町人である。表面上では依然として武士の天下であつて町人階級は政治に手を出すことは出来ない。名誉の地位も与へられない。低能窮乏のなまくら武士、貧乏侍でも、表向きは御殿さま、御武家様の敬称を奉つて低頭平身せなければならぬ程の惨めさであつた。されば彼等は此の不平不満を補ふがために致富貨殖を唯一の目的として、金銭の実勢力を以て武士階級の容易に味ふことの出来ない享楽の天地を自由に占有した。それは別乾坤なる花柳狭斜の巷である。其処には階級制度の圧迫も束縛もなく、唯だ黄金の実力ある者が優越者として思ふ存分に振る舞ひ得られるのである。固定せる階級制度のために束縛された町人が自由の天地を紅燈緑酒の花街に求めたのは実に必然の帰向であつた。かくして大阪では公娼地たる新町を始め、私娼地たる北曽根崎新地、島の内、難波新地も非常に繁昌した。当時新町の公娼の数は、太夫三十八人、天神九十一人、鹿恋五十二人以下端女郎までを合計してその数凡そ八百余人、揚屋の数は二十五軒、茶屋は四十五軒と註せられた。
元禄時代に於ける大阪の金持町人が如何に豪放濶達で花柳の巷に浮かれ騒いだかは、西鶴の「町人鑑」に「こゝも天下の町人なればこそ、世間を恐れず、思ひ思ひの色さわぎ」といひ、また「寛濶大尽気質」に「難波は西国第一の大港、人の心も大気にて、いかなる末の年代も百匁二百匁つかふこと何とも思はず」とあるに観てもその一班を窺知することが出来るが、近松の「淀鯉出世瀧徳」に淀屋の豪奢を描いて「己が親父はな、一年に八千両、九千両づゝ、三十年費つたけれども遂に浮名が立たなんだ。こちが身代で五百両や千両つかふたら何ぞや」と云つてゐる程、豪奢の限りをつくした金持階級もあつた。