九(前記の如く、元禄時代の前後に上方に情死の盛んに行は)

前記の如く、元禄時代の前後に上方に情死の盛んに行はれるやうになつたのは、当時に於ける経済状態の関係に因ることも明かであるが、併しまた之と同時に、人情風俗の影響あることをも看過すことは出来ない。蓋し上方は当時文化の中心であつただけ、京阪の民衆の風尚人情は、デリケートであり淫靡であつた。当時一代の名優阪田藤十郎の傾城買の演劇が非常に歓迎されたのも、一面には人生に於ける恋愛感情の微妙を味ふべき芸術的趣味の具はつてゐたのと、一面には淫靡豪蕩の風が滔々として俗をなし、町の小娘でさへ、恋愛の点に於ては早熟であつて、良家の処女すらも「髪の結び振り小悧巧に、ひつくるひつくる曲輪様」とあるやうに、遊廓の流行を模し、早くより性的情趣を解してゐた如き世態であつたからである。看よ、延宝の六年正月、新町扇屋の名妓夕霧が労咳にて死亡し、情夫藤屋伊左衛門との哀れ悲しき挿話逸事の巷聞に上るや、名優阪田藤十郎は「夕霜名残正月」といへる外題の下にその事を綴りて大阪の荒木与次兵衛座に上演し、自ら伊左衛門に扮し、相浪千寿が夕霧をつとめて大に世好に投じ、数十日の興行大入りをつゞけ、一年中に四回迄同し狂言を出して当りつゞけ、藤十郎が宝永六年六十三歳にして永眠するまで実に三十二年間、十八度まで此の狂言を上演して毫も人気を失はなかつた。その他、彼の当り芸は、傾城の二字を冠する江戸桜、仏が原、弘誓船、曉の鐘、玉手箱等であつて豪奢艶麗なる上方の気風気質をその儘に表現した。彼の傾城買の狂言を無上に歓迎した町人都市に於て同じく近松及び紀海音の心中劇の喝釆されたのも思へば異とするに足らない。

上述の如く上方では元禄前後より社会経済的関係と、デリケートな人情風俗影響とによつて情死者を輩出したが、之に反して当時の江戸に於ては未だ心中沙汰といふものが無かつた。これは何故かといふに、矢張りその社会経済状態と人情風俗との然らしめたものである。

抑々江戸は慶長以来、将軍の居城となり、政治の中心地であつたが、併し文化の旧い京都や、豊臣氏時代より盛大なる商業都市の大阪に比すれば、その都市的発達や文化的思想は遥かに遅れ、漸く寛文の頃に至て始めて江戸の繁昌が注目せられるやうになつた。そして元禄期に入つても江戸は未だ東方の新都会であつて、言はば移住地殖民地といつても可い程の状態であつたから、恰も今日いろいろの雑輩が将来の成功を期して朝鮮や満洲に押しかけるが如く、奇利を博し出世を欲する人間は諸国より江戸を目がけて来集した。「子孫大黒柱」に「江戸は大場9ゑ、四五年のうちに是非立身する所なり」とあるのは這般の消息を漏らしたものである。

此様な状態であつたから、当時の江戸は諸国人各階級の雑然と寄り集つた大都市であつて、殖民地的移住地的気分の横溢し、市民各自の連結が緩く、隨つて社会的及び道徳的制裁の厳重でなかつたから、自分達の生活に悪いやうな事でも起れば、何の未練も執着もなく、江戸を後に見すてゝ何処へでも遁れ去ることの出来る自由があつた。それ故、相思相愛の男女が恋愛生活に行き詰つた場合では大概駆け落といふ手段を執つた。然るに大阪は元来より商業都市で、町民間の連結が堅く、他国に遁れて自由に世を送らうと云ふやうな漂泊根性のないのと、また一面には町民間の連帯の掟を破つて信用の失墜した場合には、自己の社会的生存を取消すことの外に何者もないと云ふ観念の強かつたがため恋愛によつて身を誤り産を破り信用を失つたものは、心中を以て社会を辞する最後の途と考へたのである。此様な当時の社会経済的関係によつて大阪には、情死事件の踵出し、江戸には未だそれが起らなかつたのであると解したい。元禄期は実に吉原遊廓の全盛時代で「我衣」にも「元禄宝永の頃、悪所の繁栄は尽は極楽の如く、夜は龍宮界の如しと云へり云々」とあるやうに、吉原の公娼は元禄期に於て全盛を極め、その他、踊子、勧進比丘尼、茶屋女等種々の私娼も多数にあつて悪場所の大に繁昌してゐたにも拘はらず、元禄期の江戸に未だ心中沙汰の無かつたのは、要するに前述の如き当時の社会状態に基因するの他、人情風俗の影響も亦た大に与つてゐるのである。