元禄期の江戸は吉原及びその他の悪場所の大に繁昌し奢侈淫蕩の風滔々として俗をなすに至つた時代であるが、併しその一面には猶ほ殺伐なる戦国時代の武士的風習の遺り、上方とは大にその趣を異にしてゐた。看よ豪宕なる物徂徠の学派は篤実なる京都の仁斉学派と相容れず、奇勁なる英一蝶の書風は濃艶なる京洛の光琳の書風と全く相違してゐたでは無いか。文学及び美術にして既に然り、平民の嗜好趣味を代表する演劇の如きも、第一世市川団十郎の殺伐豪放なる芸風、所謂荒事が勇壮粗侠なる民衆の気風に投じ無上の喝釆を博したのも当然の結果であつた。もつとも元禄期の江戸は上方の文化を吸収しつゝあつた時代であつて、人物移動の点より見ても、上方より婦人の盛んに江戸に輸入せられたのは実に元禄期であり、幕府の大奥を始め、諸侯の藩邸に至るまで、多数の京女の迎へられた時代であつた。さりながら、平民間に於ける殺伐疎放の蛮風を変化するまでには至らなかつた。木偶劇に於ても、弁慶や金時の切り合ふやうな血腥いものが歓迎され、劇場の中心人物市川団十郎は剛勇怪力を叙せる和泉太夫の金平本や金平劇より思ひついて、丹朱を以て四肢を彩り、紅と墨とを以て顔面を塗り、粗宕豪快なる荒事を得意芸となし、劇壇の覇権を掌握したのであつた。亦以て当時に於ける江戸民衆の風尚趣味の甚だ粗野なりしことを推知すべきである。そして江戸の婦人も、西鶴の「好色一代女」の中に記せるが如く「情に疎く、物に恐れず、心底まことは在りながら、却て色道の慰みになり難き」ものであつた。されば此の如き当時の男女の恋愛的悲劇を描出せる凄惨哀愁の心中物に感興を催うす余地のなかつたのは自明の理であり、隨つてまた情死者の未だ輩出せなかつたのも蓋し当然の次第であった。
さりながら江戸の地も元禄以後より次第に粗野の蛮風を失ひ、次第に上方風に感化せられるやうになつてきた。その原因は固より種々であるが、上方文化の輸入がその原因の一たることは蓋し論ずる迄もない。ことに宝永の頃、都一中が江戸に上りて上方流行の浄瑠璃を弘め、次で享保の初め、竹本流の浄瑠璃の更に江戸に伝つてより、貴賤を通じて之を愛玩するもの多く、その後又た宮古路豊後が大阪より江戸に来り、凄婉の調を以て心中浄瑠璃を唄ふや、遊士町民の之を喜んでその曲節を学ぶもの簇出し、大名旗本の中にも豊後節の会を催うすやうな有様となったので、物に感し易く情に移り易い青春の男女は、不知不識の裡にその暗示感化を受け、心中の沙汰が頻発するに至った。
大宰春台は「独語」に於て上方より輸入せられた浄瑠璃の江戸の士民に及ばせし影響を論じ「浄瑠璃の盛んに行はれてより此方、江戸の男女淫奔すること数を知らず、元文の年に及びては士太夫は言ふに及ばず、貴き官人の中にも人の女に通じ或は妻を盜まれ、親族中にて姦通するの類ひ、いくらといふ数を知らず、是れまさに淫楽の禍なり」といった。江戸士民の性的風紀の紊乱し、心中や駆落沙汰の踵出するやうになつたことが、浄瑠璃の影響感化にも因ることは蓋し疑なき処てある。独逸の大詩人デーケ―の自著「若きウヱルテルの悩み」を読んだ青春男女の自殺すること多きを知り、その予期せざりし結果に対して自著を批難したといふことであるが、近松、紀海音等の創始した心中浄瑠璃も、ゲーテーの「若きウヱルテルの悩み」の自殺者を輩出せしめたのと同様に情死者を踵出せしめた。大阪では天和より享保の初期に亙りて約三十余年の間、情死の流行したが、享保五年「心中天の網島」の出でた頃は「やうやうこの廓の心中沙汰も鎮つた」とあるやうに、最早や享保の初期には大阪に流行した情死も鎮静するに至つたのであるが、之に反して江戸に伝染した心中は享保年代に至つて著るしく流行するやうになり「窓のすさび」に「男女、心中といつて共に死すること、京大阪の風なりしが、今はいつしか江戸に移りて年々絶えず」とあるが如くに情死者が踵出してきた。