十一(こゝに於てか幕府は、享保七年、心中浄瑠璃及び演劇を厳禁)

こゝに於てか幕府は、享保七年、心中浄瑠璃及び演劇を厳禁し、八年には情死を仕損じたものは三日間晒しものにした上、非人に下し、また死亡したものは、その遺骸を裸体にして野外に放棄することを布令した。この法令に始めて触れて所刑された最初の情死未遂者は神田の酢屋の丹波屋九郎兵衛と吉原の遊女兵庫屋抱への音羽の二人で、享保十六年七月十二日より十四日に至るまで、三日間、日本橋にて晒らしものにせられた。しかし此法令は百姓町民に適用されたもので、武士階級に於ては、この法律的制裁を受くるの外に、一家断絶を厳命された。徳川麾下の武士の中で、這般の処分に遭つたのは、三浦肥後と藤枝外記との二人であつた。外記は天明五年八月吉原の遊女綾衣と吉原田圃の餌蒔平右衛門方にて情死したのであるが、三浦肥後は如何なる女と共に自殺したのか明かでない。しかし、宝暦の頃吉原に流行した小唄に「君と寝ようか五千石取るか、何の五千石、君と寝よう」といふのは、三浦肥後の情死をうたつた者であるとの説がある。

幕府は前述の如く、享保八年、情死者及び未遂者を所刑する他に、なほ心中といふ名は二字合せると忠といふ字になるから、不埓だといつて相対死と改称させた。これは享保時代の名奉行大岡越前守の発意に出てたものである。「我衣」に、傾城売女に近づく者の七損といふ条下に「心中して死するものあり、御公儀の御慈悲にて御法度になつて近年少し。心中と唱ふることは芝居より出でたり、相対死と云ふ」とあつて、その原註に「大岡忠知(忠相の誤り)の附けし名目なり」とあり、また「卯花園漫録」にも「近来大岡忠相、愚夫愚婦の心中するを愍み悪み、その言葉を改めて相対死と号し、工夫をめぐらして之を停止せんとすれど止まず」とある。是に由て之を見れば、情死に対する前記の法度も亦た大岡忠相の建策に出でたことを推測するに難くない。

然るに「名君享保録」には、享保の心中法度が第八代将軍吉宗の命に出たものと記して、吉宗公、松平乗邑、大岡忠相へ政治御閑談のことの条に「御先代まで男女色欲にて命を殞するものを、上方江戸共に心中と申しならはす。以ての外不屈の詞なり。心中と云ひては忠とよませて、論語にも、忠は有りたけを顕すことなり、また、まめと訓する処なり。何ぞ斯く愚痴文盲にして此世に添はれず、未来で添ふと云ふ様なる徒ら者の死を心中とや云はん。以来は相対死と申すべし。これは人間の智慧にて男女相対して死することは有るべからず、皆禽獣の心になりて致すことなり。人にあらざる所行なれば禽獣または人非人といふべし云々」とある。さりながら、三田村鳶魚氏の考証に依るに、この心中禽獣論は吉宗の説に出でたもので無く、黄檗宗の高僧悦山和尚の法語をば吉宗の説に附会したものであるらしい。それは元禄十四年版の都の錦の「東海道敵打」に「それ心中とは欲を離れ、義を守り、貞を尽くして死に臨むを云へり。今時の心中は三勝を始めとしてその外の白痴ども、山吹色に憎まれて、うしや事なしの死物狂ひ、これ等は皆犬死なれば、心中ては無うて食獣しやと、南岳悦山和尚の目利きもをかし」とあって、郎ち享保の心中制度よりも既に二十二年以前に出た「東海道敵打」に斯く記せる以上は、悦山和尚の心中禽獣論を吉宗の説に附会したらしく思はれてならぬ。

それは兎に角、幕府が享保七年に心中の狂言、読物を禁じ、八年には情死の存命者を所刑することゝなつてより、享保十二年の頃には情死者の甚しく減少し、同年の落首にも「少きは金の借り出し火事の沙汰、見せ商ひにさては心中」とうたはれる程になつた。享保の初年頃までは「窓のすさび」や「卯花園漫録」にも記せるが如く、江戸には年々絶えず心中沙汰の多く、大岡越前守の頭を悩やませる程であつたのに、一たび心中制度の発布されてより頓に情死者の著るしく減少したことは、如何にこの法度が当時の男女の恐るべき脅威であつたかを雄弁に物語つてゐる。